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奥田研爾(おくだ けんじ、1945年8月2日 - )は、日本の医師、医学研究者。学位は医学博士(横浜市立大学・1976年)。
黒屋賞受賞者。富山県下新川郡入善町出身。「感染症の遺伝子制御」によって1983年の黒屋奨学賞を受賞した。
奥田研爾
富山県下新川郡入善町に生まれる。富山県魚津高校を卒業後、大学は横浜市立大学医学部に進学。大学時代は米国への留学を目指し英会話などの語学習得にも努めた[2]。
大学時代、皮膚科学を専門とする野口義國教授に出会い、哲学を踏まえた免疫学の講義に深く影響を受ける。ただし、後には著書で、医学においては哲学よりも事実解明や真実の追求が重要であると語っている[2]。
野口義國教授からの深い影響で免疫遺伝学の道に進み、「誘導ミサイル療法」というテーマで学位を取得した。
その後横浜市立大学病院にて1年間内科・皮膚科の研修を行ったのち、横浜市立大学大学院医学研究科に進学。大学院では免疫学と感染症の研究をした。
大学院での研修1年目に、一流医学雑誌「The New England Journal of Medicine」に研究論文が掲載される[3]。その後、13編の英文論文を発表したのち博士号を取得した。
大学院修了後の6月、ワシントン大学遺伝子学研究室でResearch Assosiateとして免疫遺伝子学の研究を開始した。当時、年齢は29歳だった。ワシントン大学時代には主要組織適合抗原の免疫制御の重要性に関する研究を4編発表している。
1977年、ワシントン大学のチェラ・デイビッド准教授の誘いにより、メイヨークリニック医科大学にてAssistant Professorとして免疫遺伝学の研究や大学院生への研究指導を開始した。研究内容は、種々の免疫を引き起こす蛋白の抗原決定基に関するものだった。メイヨークリニックでの研究論文は、6編の雑誌に掲載された。
昭和53年帰国後、母校横浜市立大学で微生物学の教授として教鞭をとった。米国で培った経験と知識を活かし、生徒とのコミュニケーションを取りながら講義を行ったという。
その後アメリカとスイスでもアシスタントプロフェッサーとして日本を行き来し、昭和58年に日本を拠点の中心とした。
また、生徒に対しては繰り返し英語で試験を行うなど、世界で活躍できる人材の育成に尽力した[2]。
教鞭をとりながらも免疫遺伝学の研究は続き、研究室では種々のコンジェニックマウスを飼育し国内の先端研究室に提供していったという。
横浜市立大学で教鞭をとっていた1980年、ハーバード大学のバルフ・べナセラフ教授からAssistant Professorとして研究を行って欲しいとの誘いを受け、1年半ハーバード大学で免疫遺伝学の研究を行った。べナセラフ教授の要請で、日本から横浜市立大学で寄生虫学や免疫学の研究をしていた南陸彦氏と古沢修一氏も追加で渡米し、3人で研究に没頭。3人の研究成果は医学雑誌「ネイチャー」をはじめとした一流雑誌に掲載された。
世界で初めてHIVによる発症が報告され、感染拡大を機に、日本初のエイズワクチンの開発研究に尽くした。1995年の研究では、人工的に合成されたペプチドがTリンパ球を活性化できるという内容のものだった[4]
考案されたエイズペプチドワクチンは、HIVウイルス表面の抗原性を持つ部位にある20種類のアミノ酸を結合して作られた合成ペプチドを用いたものだった。ワクチンの開発研究の成果は国際学会やNature Medicineなどを中心に発表された。しかし、国内の一部の研究者がマスメディアを通じて研究手順に関する批判を行ったことが研究を進めるうえで大きな弊害となった。
当時、タイでのHIV感染率が社会問題と化していた背景から、タイ政府からタイでのエイズワクチン開発の打診もあった。そこで、国内での研究から方向性を変え、タイのチュラロンコン大学のファヌパク教授との共同研究を開始し、HIVのペプチドなどのサブタイプに関する多角的な検討にも着手していた。
しかし、一部の研究者がマスメディアを通じて研究手順に関する批判を行ったことが研究を進めるうえで大きな弊害となった
なお、本人はそれら研究者の行為が誹謗中傷であると主張しており、Nature Medicineにはメディア等が日本の若手研究者の研究を妨害しているとの記載[5]もあった。
本人はワクチンの研究開発が妨害された件について、日本特有の医療システムに問題があると著書で指摘している。著書では、化学及び血清療法研究所などの5つのワクチン研究所がワクチンを生産して他のグループを排除する傾向があると記載されている[2]「。また、行政からの管理体制や承認制度も国内でのワクチンの開発研究を阻害するものだと指摘している。
また、Nature Medicineが発表した記事では、「国内の製薬会社が保守的であり、スキャンダルに少しでも関連のある者との関わりを避けがちである」とも指摘されている。なお、当時奥田は個人資金を使ってでも研究を続ける意気込みを見せていた。
国内でのワクチンの臨床開発を断念した後、中国で約20年間に渡りエイズワクチンなどの共同臨床開発を行った。共同臨床開発においては、サルを使用した実験でエイズワクチンの有効性も認められた[6][7]。その間、習近平元国家主席が広東省長だった当時、田中誉志夫氏(貿易商社会長)が同席する中でワクチンの共同研究の要請を受けるといった出来事もあった。
インドではモディ首相と面会し、カディラ製薬会社とともにエイズワクチンの共同研究を3年ほど行った。当時の研究は、現在ではカディラグループによるコロナワクチンの生産に活かされている。
教え子である石井健[10](東京大学教授)や武下文彦[11](第一三共研究所)、佐々木津博士[12](サノフィ株式会社)はコロナワクチン開発の最前線で活躍している。
2013年から現在に至るまで横浜市磯子区医師会理事[13]を務め、磯子区休日急患診療所に隣接するPCRセンター[14]立ち上げの指導を行った。
両親ともに教育者の家庭に生まれ、6人兄弟の末っ子として育つ。
次男は中学生の頃に結核を患い1年間の自宅療養を行っている。また、五男は小児麻痺を患い足が若干不自由になった経験がある[2]。
本人曰く、子どもの病を経験したことから、母親は兄弟らに臨床医の道を強く勧めたという。実際に、6人兄弟のうち半数は医師か歯科医師、残りは大学講師や建築士の道に進んだ。
大学時代、野口義國教授の皮膚科研修に参加していた女性と結婚。
1971年(昭和46年)
横浜市立大学医学部卒業
1972年(昭和47年)
横浜市立大学大学院医学研究科に進学
1976年(昭和51年)
昭和51年 米国ワシントン大学遺伝学教室兼任Research Associateとして勤務
1977年(昭和52年)
9月・米国メイヨー医科大学Assistant Professor及び米国ミネソタ州立大学兼任Assistant Professor
1980年(昭和55年)
米国ハーバード大学医学部Assistant Professor として勤務(B. Benacerraf教授;ノーベル賞受賞者)
1982年(昭和57年)
スイスバーゼル免疫研究所客員研究員として勤務(坂野仁東大教授、利根川進教授;ノーベル賞受賞者)
1983年(昭和58年)
横浜市立大学医学部微生物学教授
上大岡仁正クリニック(腎臓透析医師)
1990年(平成2年)
相和会相模原病院(総合内科・健康診断)
1993年(平成5年)
米国デューク大学客員教授
岡田眼科にて眼科医として勤務
1999年(平成11年)
横浜市立大学教養部長兼任
2000年(平成12年)
中国医科大学客員教授
2001年(平成13年)
横浜市立大学医学部長兼任
2003年(平成15年)
横浜市立大学副学長兼任
2008年(平成20年)
福祉村病院医師(老年内科)・兼長寿医学研究所所長
2010年(平成22年)
横浜市立大学名誉教授
2011年(平成23年)
共楽荘診療所長(老年内科)
2012年(平成24年)
1983年
1990年
カテゴリ:日本の医学者|日本のウイルス学者
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