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内藤 濯(ないとう あろう、1883年7月7日 - 1977年9月19日)は、日本のフランス文学者、評論家、翻訳家、エッセイスト。
フランスの作家アントワーヌ・ド・サン=テグジュペリの『Le Petit Prince』(直訳すると「小さな大公」)を初めて『星の王子さま』と訳したことや、1908年に雑誌『音楽界』の中で「印象主義の楽才」として日本に初めてクロード・ドビュッシーの作品を紹介したことで知られる[1][2]。
熊本県熊本市に生まれる。父・泰吉は軍医。熊本市立慶徳小学校から福岡県立中学伝習館に進む。同期に北原白秋がいた。
上京して開成中学校に転校。在学中に文学に目覚め、和歌や新体詩に熱中。1903年、卒業。第一高等学校文科丙類では日本ユニテリアン協会に参加。
1907年、東京帝国大学文学部仏文学科に入学。1910年、卒業。フランス語教官として陸軍幼年学校に勤務。のち第一高等学校に奉職中、文部省在外研究員となり、パリ留学。1924年に帰国後、東京商科大学(現在の一橋大学)教授となる。当時の教え子に伊藤整・葛川篤・佐倉潤吾・瀬沼茂樹・田中西二郎がいた[3]。1931年、フランス政府からレジオン・ドヌール・シュバリエ勲章を受ける。1944年、商科大を定年退官。
戦後、昭和女子大学講師を務める。1971年1月、歌会始の召人に選ばれ「鞍馬苔からみあひつつ庭つちに居つけりと見ゆ小さきわが家」が詠進される。1972年、昭和女子大を退職。
長男の内藤初穂(1921 - 2011)は編集者などを経て作家。父の伝記『星の王子の影とかたちと』を執筆している。次男の内藤幸穂(1924 - 2014)は学校法人関東学院元理事長。
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