公益社団法人二科会(にかかい、NIKA ASSOCIATION)は、日本の美術家団体のひとつである。絵画部・彫刻部・デザイン部・写真部からなる「二科展」を毎年開催しているが、デザイン部・写真部は組織上では「公益社団法人二科会」に含まれておらず、個別に一般社団法人となっている。元文部科学省所管。
- 1914年(大正3年)文部省美術展覧会(文展、現日展)から分離して、在野の美術団体として「二科会」が結成される。10月1日から10月31日まで、上野竹の台陳列館で第1回二科美術展覧会を開催。有島生馬「鬼」、湯浅一郎「官妓」、斎藤豊作「落葉する野辺」。
- 1915年10月13日から26日まで、三越で、第2回展。田辺至・柳敬助は退会、安井曾太郎・森田恒友・正宗得三郎が会員になる。山下「供物」「端午」、坂本「牛」。安井の滞欧作「孔雀と女」「足を洗ふ女」など50点余を特陳。
- 1916年10月12日まで、三越で、第3回展。石井「金沢の犀川」、安井「ダリア」。正宗の滞欧作「リモージュの朝」など36点を陳列。
- 1917年9月9日から9月中、竹の台で、第4回展。立体派ふうの万鉄五郎「もたれて立つ人」、未来派ふうの東郷青児「狂ほしき自我の跳躍」、神原泰の作品などが注目される。
- 1918年9月9日から9月中、上野竹の台で、第5回展。劉生「川幡氏の像」、関根正二「信仰の悲しみ」「姉弟」など。
- 1919年9月1日から9月30日まで、竹之台で、第6回展。小出楢重「Nの家族」、関根「慰められつつ悩む」など。藤川勇造が会員に推され彫刻部を新設する。
- 1920年9月1日から9月中、竹之台で、第7回展。柏亭「農園の一隅」、小出楢重「少女お梅の像」など。
- 1921年9月9日から9月29日まで、竹之台で、第8回展。安井「人物」、中川一政「静物」、中川紀元「猫と女」など。
- 1922年9月9日から9月29日まで、竹之台で、第9回展。安井曾太郎「椅子による女」、児島善三郎「浅き春」など。
- 第10回展は、招待日に震災のために中止、京都・大阪でひらく。山下新太郎「金閣寺林泉」、小出楢重「帽子のある静物」、黒田重太郎「一修道僧の像」、藤川勇造「マドモアゼルS」など、ピカソ・ブラック・マチスらフランス現代画家の作品40余点を特陳。
- 1924年9月2日から9月29日まで、第11回展。小出「帽子を冠れる肖像」、横山潤之助「ギターもつ男」、藤川「ブロンド」など。
- 1925年9月2日から9月29日まで、第12回展。安井「柿実る頃」、曾宮一念「冬日」など。特別出品、坂本繁二郎「帽子を持てる女」「老婆」など。
- 1926年(大正15年)9月4日から10月4日まで第13回展を東京府美術館で開催。有島生馬「岬と海水場」、津田青楓「籐椅子の裸婦」、佐伯祐三「壁」など。
- 1927年9月3日から10月4日まで、府美で、第14回展。長谷川利行「麦酒室」など。
以後、2006年まで同館で開催。
- 1928年9月3日から10月4日まで、府美で、第15回展。安井「花と少女」、佐伯「新聞屋」など。また中山巍・東郷青児の滞欧作を特陳。
- 1929年9月3日から10月4日まで、第16回展。古賀春江「素朴な月夜」、小山敬三「アルカンタラの橋」など。福沢一郎のシュールリアリズム的な作品を特陳。
- 1930年9月4日から10月4日まで、第17回展。安井「婦人像」、有島「熊谷守一肖像」など。林重義・向井潤吉・伊藤廉の滞欧作を特陳。メカニズム・シュールリアリズムの作品も展示。
- 1931年9月3日から10月4日まで、第18回展。有島「震災記念」、青楓「新議会」、安井「ポーズせるモデル」「外房風景」、山下新太郎「少女立像」、鍋井「奈良の月」、小出楢重・湯浅一郎の遺作など。
- 1932年9月3日から10月4日まで、第19回展。坂本「放牧三馬」、安井「薔薇」、国吉康雄「サーカスの女」など。山下新太郎・木下義謙らの滞欧作を特陳。
- 1933年9月3日から10月4日まで、第20回展。安井「奥入瀬の渓流」など。併せて創立二十年を記念して、故人や会を離れた作家による43作品の展示も行われた[1]。
- 1934年9月3日から10月4日まで、第21回展。安井「金蓉」「玉虫先生の像」など。藤田嗣治の滞欧作27点を特陳。
- 1935年9月3日から10月4日まで、第22回展。藤田嗣治「Y夫人の肖像」「北平の力士」「五人女」、宮本三郎「婦女三容」など。
- 1937年9月3日から10月4日まで、第24回展。坂本「水より上る馬」、藤田「千人針」など。
- 1938年9月3日から10月4日まで、第25回展。坂本繁二郎「松間馬」、向井潤吉「突撃」、北川民次「戦後図(メキシコ)」など。
- 1944年(昭和19年)11月、第30回展開催後解散。1944年10月6日解散。
- 1946年(昭和21年)再建、第31回展開催
- 1951年(昭和26年)「商業美術」部門(現デザイン部門)の新設。
- 1953年(昭和28年)当時の会長、東郷青児の発案により写真部を創設。林忠彦・早田雄二・秋山庄太郎・大竹省二の4名が創立会員となる。
- 1979年(昭和54年)絵画部・彫刻部を法人化し、社団法人二科会となる
- 2006年(平成18年)常務理事織田廣喜、理事長就任
- 2007年(平成19年)国立新美術館で二科展開催。以後、同館で毎年開催。
- 2012年(平成24年)公益法人制度改革により公益社団法人化
文展は官展(=政府主催の展覧会)であり、大正初めには、画家の登竜門のひとつとして重要な存在になっていた。その日本画の部門は、新旧の二科に分かれており、新しい傾向の画家たちも比較的活動しやすかったのに比べて、洋画部門はそのようになっていなかった。そして、審査側が硬直的・停滞的な体質に陥っていた。
山下新太郎、津田青楓、有島生馬ら、新帰朝者(国費留学の経験者。当時の呼称)を中心にしたグループは、1913年の文展の審査に不満を持ち、洋画についても二科制とするよう政府側に建白書を提出したが、受け入れられそうにないため、新しい美術の発展を図るために文展を脱退し、“旧科”文展に対する“新科”の「二科会」を結成した。会員たるには文展に出展しないことが参加条件であった。創立メンバーには、山下・津田・有島の他に石井柏亭、田辺至、梅原龍三郎、柳敬助、小杉未醒、斎藤豊作、坂本繁二郎、湯浅一郎らがいた。
1935年(昭和10年)、文展の後継である帝展を開催する帝国美術院の大改革が行われ、官選の形で二科会から石井柏亭、山下新太郎、有馬生馬、藤川勇造、安井曽太郎の5人が官選という形で美術院の会員に選出された。官展と二科の双方に出品できないという会則に従い5人は退会した[2]。一方で会員に選ばれなかった創立メンバーもおり、会の内部で動揺を招いた[3]。
その後も独立美術協会、一水会、行動美術協会、二紀会、一陽会が二科会から独立した。各団体で創立時の気風は受け継がれ、新しい傾向の作家に活躍の場を提供、多くの芸術家を輩出している。
さらに見る 絵画部, 彫刻部 ...
第105回(2021年)二科展入選者統計[4]
| 絵画部 | 彫刻部 | デザイン部 | 写真部 |
搬入点数 |
1,941点 | 48点 | 483点 | 13,265点 |
入選者数 |
656名 | 41名 | 174名 | 847名 |
内初入選 |
110名 | 15名 | 65名 | 159名 |
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出典
二十年の功績物語る回顧作品展『東京朝日新聞』昭和8年9月3日(『昭和ニュース事典第4巻 昭和8年-昭和9年』本編p498 昭和ニュース事典編纂委員会 毎日コミュニケーションズ刊 1994年)
二科が官展入りの五人と決別『東京日日新聞』昭和10年6月2日(『昭和ニュース事典第5巻 昭和10年-昭和11年』本編p412 昭和ニュース事典編纂委員会 毎日コミュニケーションズ刊 1994年)
帝国美術院の改組を閣議承認『大阪毎日新聞』昭和10年5月29日夕刊(『昭和ニュース事典第5巻 昭和10年-昭和11年』本編p410)