丸岡城 (丹波国)
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丸岡城(まるおかじょう)は、京都府亀岡市余部町古城[1](旧・丹波国桑田郡[2])にあった中世の日本の城。余部城とも呼ばれる。
丸岡城は現在の西願寺付近の台地の上にあった城で、今も「古城」「古城浦」「政所」などの小字が残る[3]。
かつては城のすぐ北を大堰川の旧河道、南を曽我谷川の旧河道が走り、東側もその二つの川をつないで、三方向が天然の堀で囲まれていた[1]。また、台地の続く西側には2本の横堀が設けられていた[3]。
築城された時期はわかっていない[1]。
応仁・文明の乱の際、丸岡城は東軍の拠点となっていた[4]。文明元年(1469年)6月、東軍の野田泰忠や安富又次郎が「余部之城」へ入っており[5]、同年10月、丹波に侵攻する西軍を防ぐため、二人は再び「余部之城」に入っている[6]。
戦国時代後期には、波多野元秀が長尾大和守に対し、「余部」で敵と戦い、「入城」したことを賞している[7][8]。この時、丸岡城が平城だったためか「無要害」と記している[9]。
天正3年(1575年)6月、織田信長の命を受けて、明智光秀が丹波攻略を開始した[10]。光秀は後に亀山城を築城し、天正6年(1578年)にはそこを前線基地としているが、当初は余部を拠点としていた[11]。天正3年(1575年)8月の小畠永明宛ての書状の中で、光秀は「馬路・余部在城之衆」に指示を伝えたことを記しており[12]、「在城」という言葉から丸岡城が使用されていたことがわかる[3]。また、年未詳の書状において、光秀は永明に余部の近くに来るよう命じ、別の書状では、国衆から取った人質を余部に連れてくるよう永明に伝えている[4]。預かった人質が居住できる環境があることから、丸岡城は光秀にとっての拠点的城郭だったと考えられる[13]。
『亀山由来記』によると、丸岡城の遺構はしばらく残り、承応3年(1654年)になって丸岡城の天守・土蔵を取り壊し、堀を埋めたという[1]。
丸岡城のあった場所に建てられた西岸寺で1枚300円で取得することができる[14]。
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