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日本の国際政治評論家 ウィキペディアから
中丸 薫(なかまる かおる、1937年〈昭和12年〉5月23日 - )は、国際政治評論家。米国財団法人『国際問題研究所』有限会社『国際問題研究会』及び『太陽の会』を主宰。日本ペンクラブ会員。配偶者は俳優の中丸忠雄(2009年、死別)。
なかまる かおる 中丸 薫 | |
---|---|
生誕 |
松村薫[1] 1937年5月23日(87歳) 中華民国 |
住居 | 日本 |
国籍 | 日本 |
出身校 | バーナード大学、コロンビア大学大学院 |
職業 | ジャーナリスト、国際政治評論家 |
活動期間 | 1963 - 現在 |
団体 | 米財団法人国際問題研究所、有限会社国際問題研究会、太陽の会 |
著名な実績 | 世界各国の国王、大統領、首相、財界人、映画監督、芸術家などにインタビューを行った。 |
影響を受けたもの | 1976年3月、霊的体験をアラビア半島で受けた。 |
肩書き |
国際問題研究所 理事長 太陽の会 総裁 国際問題研究会 代表 |
配偶者 | 中丸忠雄(死別) |
子供 |
長男 長女 |
受賞 |
「2000 Outstanding Intellectuals of the 21st Century」 「Great Minds of the 21st Century」 「Ambassador of Grand Eminence」 「Great Woman of the 21st Century」 |
公式サイト | 国際ジャーナリスト 中丸 薫 オフィシャル |
中国生まれ。父親は明治天皇の落胤とも称される堀川辰吉郎、母親は日本赤十字の看護師として大陸に渡り、満洲事変から日中戦争期に抗日兵士の帰順工作を行ったという中島成子だとしている。
著書によれば、薫の生後45日後に盧溝橋事件が起こり、中島成子は関東軍の依頼により日中間の交渉を担うことになったため、薫は松村正之・北京大学教授[要検証]夫妻に預けられた。6歳の誕生日を迎えてまもなく、松村夫妻の故郷である山梨県甲府市に移住。1950年に山梨英和女学院中等部に進んだという[2]。そこで外国人教師から英語を学んだことがきっかけとなり、東京へ行くことを決意。親戚が住んでいた文京区にある東京都立小石川高等学校に進学した[注釈 1]。当時、小石川高校は1クラス約60名の生徒のうち、女子は10名程度しかいなかったが、薫は2年生のときに生徒会長に選ばれ、卒業するまで務めたという[3]。また、英語研究会のリーダーを務めた[4]。
バーナード大学 (en) を経て[注釈 2]コロンビア大学政治学部に入学、東アジア研究所で国際政治学を専攻し卒業[5]。1970年代より、各国国王や大統領、首相、財界人やVIP、映画監督や芸術家などをインタビューするジャーナリスト、国際政治評論家として講演、執筆、テレビで活動。1974年にはニューズウィーク誌が「日本のエドワード・R・マロー」と名付け、田中真紀子と共に「家父長制に逆らった一握りの日本人女性」("handful of Japanese women who have bucked their country's patriarchal system")として紹介[6]。この事は日本でも話題となった[7][8]。
その後も自らがプロデューサー、ディレクター、インタビュアーを務める対談番組を日米両国で持つと同時に、世界の紛争、戦争地帯に足を運び、当事国の国家元首たちと積極的に会談。その中には、リビアのカダフィ大佐やイラクのサッダーム・フセインなど、西側諸国から敵視されていた人物もいた。中丸はイラン・イラク戦争の最前線でも取材を行い、そのVTRをフセイン大統領に見せて戦争をただちにやめるよう進言している。フセイン大統領に「なぜ戦争を続けるのか」と詰め寄る様子や、カダフィ大佐に「あなたは本当にテロリストか」と問いただす姿はテレビで放映された。それらの経験を通じて、私費を投じて紛争国の仲介役を務めるなど、民間外交に尽力するようになる。
1985年に[要検証][注釈 3]“The International Affairs Institute for World Peace”(国際問題研究所)をニューヨークで、また1991年に平和を願う人々の会"Following the Sun Association”(太陽の会)を設立。その際、各国国王や大統領、文化人から「あなたのあらゆる活動に賛同いたします」との直筆サインをもらい、これら要人を顧問および特別会員として迎えている。これらの会の立ち上げにより、武力と緊張を礎とする「力の道」による「ワンワールド」ではなく、相互理解と信頼を礎とした「命の道」による「ワンワールド」の実現を啓蒙する活動を本格的に開始した。インタビュアーとして活躍していた頃からこれまでに訪問した国は186カ国。
中丸は著書において、「人間復興を通した世界平和」を目指しているとし、「富や名声、権力が人間を幸せにするのではなく、本当の幸せは愛、調和、安らぎに満たされた心から生まれる。市民からVIPまで、一人一人の心の内側を平和にすることが世界平和を実現する」と訴えている。『太陽の会』という名称も、イソップ物語の「北風と太陽」にちなんで命名。中丸は著書の中で、「太陽はどんな人をも温かい光で包み込む。私たちもそのような心で生きなければいけない」という主旨のことを度々書いている。
1966年、俳優・中丸忠雄と結婚したが2009年に死別。一男一女がいる。長男の忠弥[9]は中丸薫の著書『明治天皇の孫が語る闇の世界とユダヤ』の装画を担当している。
両親がともに日中友好のために力を尽くしたことから、中国とは日中国交正常化以前から太いパイプがあり、当時の田中角榮首相、大平正芳外相ら政府要人や外務省職員に中国情勢をレクチャーしたとしている[10]。1970年代から1980年代には三木武夫、福田赳夫、中曽根康弘、小渕恵三らと親交を深めたと述べている。
1975年、20世紀後半で世界に名を残している著名人200人を自分でアポイントをとり、インタビューした「中丸薫 世界の主役」TVシリーズを終えたころ、文藝春秋社から「自伝を出版してください」と云われた。そして、その中に「明治天皇の孫であるということも入れてください」と云われた。
その理由は文藝春秋のなかに千種任子の甥がいて「おばさんから常に中丸薫の父であった堀川辰吉郎(明治天皇と権掌侍であった千種任子との間に出来た隠し子だとされる[11])に会えなくて淋しいと聞かされていた」のでということだった。
こうした経緯で中丸薫半生記「太陽を追って」が文藝春秋から出版され、初めて明治天皇の孫、中丸薫にふれた文章が出版された。
皇室ジャーナリストの河原敏明は、「堀川氏は孫文をたすけたこともある右翼の壮士だった人。明治天皇の落胤との噂もあるが、一般的にいえば、大陸浪人とか右翼の壮士といわれる人の話は、割引きして聞かねばならない。中丸薫さんの出生そのものが判然としないし、また堀川氏がご落凰というのも噂にすぎない。もちろん宮内庁では相手にしていない。こうなると、中丸さんが明治天皇の孫だという確率はゼロにも等しいわけである」と述べている[12]。
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