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ロシアの画家 ウィキペディアから
ワシリー・カンディンスキー(Wassily Kandinsky、Vassily Kandinsky[1]、本名:Wassily Wassilyevich Kandinsky(ロシア語: Васи́лий Васи́льевич Канди́нский)、1866年12月4日(ユリウス暦)/12月16日(グレゴリオ暦) - 1944年12月13日)は、ロシア出身の画家であり、美術理論家であった。一般に、抽象絵画の創始者とされる。ドイツ及びフランスでも活躍し、のちに両国の国籍を取得した。
画家のガブリエレ・ミュンターのパートナーとしても知られている。
彼はモスクワに生まれ子供時代をオデッサで過ごした。1886年から1892年まで、モスクワ大学で法律と政治経済を学ぶ。
1896年、ミュンヘンで絵の勉強を始め、象徴主義の大家フランツ・フォン・シュトゥックに師事する。
1909年、新ミュンヘン美術家協会会長となるが、1911年にはフランツ・マルクとともに脱退して「青騎士」(デア・ブラウエ・ライター)を結成した[2]。
1910年、最初の抽象画を手掛け、絵画表現の歴史の新たな一歩を記している。代表作の『コンポジション』シリーズはこの最初のドイツ滞在期に制作された。当時の制作姿勢について、カンディンスキーと面会した澤木四方吉は「対象に縛られない、純絵画の本質としての、独立したインテンジイフな生命を齎すような画面を作ろうとするのが自分の願望である」[3](「カンディンスキイ」『三田文学』、1914年)と述べている。
1918年、革命後、モスクワに戻った。当時のソ連では前衛芸術はウラジーミル・レーニンによって「革命的」として認められており、カンディンスキーは政治委員などを務めた。しかし、ヨシフ・スターリンが台頭するにつれ前衛芸術が軽視されるようになり、スターリンが共産党書記長に就く直前の1921年に再びモスクワを離れてドイツへと向かった。
1922年、バウハウスで教官を務め、1933年にナチス・ドイツによってバウハウス自体が閉鎖されるまで勤務した。
1941年、フランスがナチスによって占領されたのにもかかわらず、アメリカへの亡命移住を拒否し続け、パリ郊外に位置するヌイイ=シュル=セーヌでその生涯を閉じた。なお、1928年にはドイツ国籍、1939年にはフランス国籍を取得している。
ピエト・モンドリアンやカジミール・マレーヴィチとともに彼は抽象絵画の先駆者として位置づけられている。また、多くの著作を残しており、美術理論家としても著名である。
ナチス占領下のフランスでは、作品の展示を禁止されたり、彼について論じることを禁止されるなど、不遇のまま亡くなった。1967年に未亡人のニーナが、晩年の彼を支えた事でレジオンドヌール勲章を受け、完全に復権した。
詳細はカンディンスキーの絵画一覧を参照。
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