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イギリスのF1コンストラクター (1947-) ウィキペディアから
ロン・デニス(Sir Ron Dennis CBE, 1947年6月1日[1] – )は、マクラーレン・グループの元CEOであり、イギリスのF1コンストラクター、マクラーレン・レーシングの総帥でもあった。完璧主義者で知られる。
元銀行員。1966年からクーパーやブラバムでヨッヘン・リントやジャック・ブラバムのパーソナル・メカニックを務める[1]。1971年、同僚のニール・トランデルと独立して『ロンデル・レーシング』を作りF2に進出した[1]。ロンデルはF1進出計画も立てたが、オイルショックの影響で実現には至らなかった[1]。
その後、新たなチーム『プロジェクト3』を興し、F2やF3で成功を収め、1979年にはマールボロの支援を得て『プロジェクト4』に移行する。マールボロはマクラーレンF1のメインスポンサーでもあったが、成績低迷のてこ入れとしてチーム運営に介入し、1980年後半にプロジェクト4と合併させ『マクラーレン・インターナショナル』へと改組した[1]。
デニスはチーム監督に就任し、テディ・メイヤーら旧体制は実質的な「乗っ取り」により刷新された。このことにより、以後に作られたマシンはマクラーレンの(マルボロの)「M」とプロジェクト4の「P4」を掛け合わせ「MP4」シリーズと命名される。
デニスは早速リーダーとしての手腕を発揮し、デザイナーのジョン・バーナードを招聘してカーボンモノコックのシャーシMP4/1を製作させた。また、TAGの資金協力でポルシェにターボエンジン開発を依頼。ドライバーも一度F1を引退したニキ・ラウダを復帰させ、アラン・プロストを獲得。その後、1984年からドライバーズタイトルを3連覇、コンストラクターズタイトルを2連覇した[1]。
1988年にはホンダエンジンと提携し、プロストとアイルトン・セナを組ませ16戦中15勝という成績を残し、再びドライバーズタイトル&コンストラクターズタイトルを獲得した。しかし、その期間はジョイント・ナンバーワン体制が原因でプロストとセナの関係に軋轢を生み、デニスは両者の扱いに苦慮することになる[注釈 1]。1990年からはプロストに代わりゲルハルト・ベルガーを迎え、マクラーレンは1991年まで、4年連続でダブルタイトルを獲得した。
1992年以降、ハイテク競争や空力デザイン面で出遅れたマクラーレンは低迷期に入る。トップチームに返り咲いたウィリアムズや、新たに台頭してきたベネトンらとタイトル争いができなくなっていった。ホンダとの提携終了からエンジンがフォード・コスワース、プジョーと毎シーズン変更されたことで戦闘力が低下し、セナの離脱、ナイジェル・マンセルは加入したもののわずか3ヶ月で引退と、チームマネージメントの不安定な時期が続いていた。
一方で、斜陽のチーム・ロータスで好走を見せた若手ミカ・ハッキネンをドライバーに抜擢し、1995年からエンジンパートナーとしてメルセデスと提携したことで、チーム力が徐々に回復し始めた。1996年にはデビッド・クルサードをチームメイトに登用し、1997年にはメカニカルデザイナー、エイドリアン・ニューウェイを招聘、1998年からブリヂストンタイヤとも提携した。その成果が実を結び、同年ハッキネンがドライバーズタイトルを、チームはコンストラクターズタイトルを獲得し、1991年以来のダブルタイトル獲得を成し遂げ、トップチームに返り咲いた。
1999年にハッキネンがドライバーズタイトルを再び獲得したが、コンストラクターズタイトルは獲り逃がした。その後、2000年、2001年、2003年、2005年、2007年もタイトル争いを繰り広げ今一歩で及ばなかったが、2008年には自らが発掘したルイス・ハミルトンがドライバーズタイトルを9年ぶりにもたらした。
2009年1月16日の新車発表会において、3月1日をもってチーム代表を退任しマーティン・ウィットマーシュにその座を引き継ぐことを表明。この際、今後もチームに深く関わっていくつもりであることを宣言し、レース界そのものからの引退は否定した。
しかし、4月16日にマクラーレン・グループ全体の構成の見直しによって、同グループの市販車部門である『マクラーレン・オートモーティブ』がグループから離脱することとなったのに伴い、デニスはその会長に就任し、レース部門から完全に引退することが明らかにされた[2][3](実際には市販車部門のグループからの分離は行われなかった)。その後2012年にはマクラーレン・グループ全体のCEOの座もウィットマーシュに譲り、自身はグループ全体及び市販車部門の会長として一歩引いた形となっていた。
2014年1月にグループCEOに復帰したのみならず、F1チームの指揮権も掌握[4]。その後ウィットマーシュはチームのウェブサイトから名前が消え、F1チームの代表はロータスから移籍してきたエリック・ブーリエらが担当するものの、デニスがグループのトップに返り咲いた。
しかし、2016年11月15日に行われた株主総会を受け、マクラーレン・テクノロジー・グループの会長兼CEOを辞任[5]。翌2017年6月には保有していたマクラーレンの株式全てを売却、37年にわたるマクラーレンとの関係に完全に終止符を打った。今後は様々な企業の顧問職などに関与する意向を示している[6]。
マクラーレン・グループを有力企業に成長させ、1989年にはマクラーレン・カーズを設立し、1993年にはデザイナーのゴードン・マレーの手によるマクラーレン・F1の販売にこぎつけるなど、自動車関係の他業種にも積極的に進出した。
また、通称「パラゴン」と呼ばれる超豪華な本社社屋(マクラーレン・テクノロジー・センター:MTC)を完成させた。2000年には大英帝国勲章のコマンダー(CBE)を受勲した。
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