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ロシア第一革命(ロシアだいいちかくめい、露: Революция 1905 года в России, 英: 1905 Russian Revolution)とは、1905年に発生した「血の日曜日事件」を発端とするロシア帝国の革命である。第1次革命とも言い、第2次革命(第二革命)は二月革命を指す。
ロシア第一革命 | |
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種類 | 市民革命 |
目的 | 生活改善、反専制、十月詔書 |
対象 | ロシア帝国 |
結果 | 憲法制定、ストルイピンの反動政治、ボリシェヴィキとメンシェヴィキの分裂 |
発生現場 | ロシア |
期間 | 1905年1月29日 - 1907年6月19日 |
指導者 | ゲオルギー・ガポン、グリゴリー・ヴァクレンチュク、ウラジーミル・レーニン、ゲオルギー・プレハーノフ、ピョートル・シュミット、イワン・バーブシュキン、ユゼフ・ピウスツキ、セルゲイ・シオン、ボリス・サヴィンコフ等 |
死者 | ゲオルギー・ガポン、グリゴリー・ヴァクレンチュク、ピョートル・シュミット、イワン・バーブシュキン、セルゲイ・シオン、アレクサンドル・グラドコフ、ニコライ・バウマンその他大勢 |
関連団体 | 社会民主労働党、エスエル、カデット、バルト海の水兵、ロシア正教会古儀式派、ロシア正教会無司祭派 |
特定の指導者がいた訳ではなく、原因や目的が入り組んだ複数の革命団体によって、反政府運動と暴動がロシア帝国全土に飛び火した。騒乱は全国ゼネスト、戦艦ポチョムキンの反乱などで最高潮に達したが、憲法制定や武力鎮圧で次第に沈静化し、ストルイピン首相の1907年6月19日のクーデターで終息した。
ロシア帝国では騒乱が日常的なものになっていたとはいえ、1905年以前の数十年間は深刻な騒動はほとんどなかった。しかし、議論を呼んだ1861年のアレクサンドル2世の農奴解放以降、政治に対する不満は増大していった。農奴解放は、多年にわたる貴族への「賠償金」と、法律上わずかばかりしか認められない人民の自由により、危うく不完全なものであった。人民の権利は、依然として階級ごとに厳格に規定された義務と規則に縛られていた。
農奴解放はロシアが封建的専制政治から資本主義にゆっくりと移行する1860年代に、唯一始まった政治・法律・社会・経済の変動である。一連の改革は経済・社会・文化を構造的に解放したとはいえ、政治体制に変更は見られなかった。政治改革を試みることは、君主制と官僚制度によって厳しく阻害された。例えば40以下の自治体で行うと合意した開発さえ制限され、実施されたのは50年も経ってからであった。期待が膨らんでも実行段階で制約を受け、結局反乱に発展するような不満を生み出して行った。反乱に加わる人々には、「『土地と自由』の要求は革命でこそ実現する」という考えが生まれた。
専らインテリゲンツィアの活動から生まれた革命運動は、ナロードニキと呼ばれた。この運動は個別に行われたものではなかったが、各々の主張により様々な集団に分かれていった。初期の革命思想には、貴族のアレクサンドル・ゲルツェンによる農奴解放支援と、ゲルツェンのヨーロッパ社会主義、およびスラブ的農民共同体に起源がある。ゲルツェンは、ロシア社会は依然として産業化が未発達であると言い、革命が起きてもプロレタリアートがいないため、革命による変動の基本はナロード(訳注:人民)とオブスチナ(原注:農村共同体)であるとする思想に共鳴した。
他の思想家は、ロシアの農村は非常に保守的で、家族や村、共同体を大切にしていると反論した。思想家は、農民は自分達の土地のことしか考えず、民主主義や西洋の自由主義には深く反対していると考えたのだった。後にロシアの思想は、1917年の革命で使われる「革命の指導的階級」という概念に引き寄せられていった。
1881年3月1日(旧暦)、アレクサンドル2世が反体制テロ組織「土地と自由(Zemlya i volya)」の分派である「人民の意志(Narodnaya volya)」の放った爆裂弾で暗殺されると、極端な変革を望まないコンスタンチン・ポベドノスツェフから深く薫陶を受けた、大保守主義者のアレクサンドル3世が即位した。
アレクサンドル3世の下でロシアの政治警察部門(オフラーナまたは、オフラーンカ)は、国内の革命運動と初期の民主化運動の両方に抑圧を行った。オフランカは、投獄や追放によって革命集団を弾圧した。革命組織に属する者はしばしば抑圧を逃れて移住したが、その中でも西欧に移住したロシア人思想家は、初めてマルクス主義に触れることになった。最初のロシア人マルクス主義団体は1884年に結成されたが、1898年までは小規模な集団であった。
1880年代、工業化によって当時のロシアの低い技術水準に大きな近代化が進行した。1892年に大蔵大臣に就任し、絶え間ない財政赤字に直面したセルゲイ・ヴィッテは、経済を押し上げ外国の投資を呼び込むことで歳入増を図る。1897年にはルーブリを金本位制とした。この「ヴィッテ体制」による改革や、シベリア鉄道建設などで、1890年代にはさらに経済が急成長した。経済成長はモスクワ、サンクトペテルブルク、ウクライナ、バクーなどの数地区に集中しており、およそ3分の1は外国からの投資で、外国の投資は活気にあふれていた。
1894年にニコライ2世が皇帝(ツァーリ)に即位したが、先帝アレクサンドル3世同様、政治改革を一切認めることはなかった。農奴解放による深刻な不公平は再検証され、農民は国中のあらゆる農園を焼き討ちするようになっていた。1890年代の好景気は停滞期に入り、労働者は最悪の状況に不満を口にするようになった。1903年には、西部のロシア軍の3分の1が「鎮圧活動」に従事していた。
1904年に大日本帝国との間に起きた日露戦争は、開戦当初はロシア人民に広く支持されたものの、強力な日本軍を相手にした戦争は敗北に次ぐ敗北で、満洲および関東州の租借権・鉄道敷設権などの利権の確保という、当初の戦争の目的も不明確なものだという考えが人民に広まっていた。さらに1905年の日本海海戦の大敗でアジアにおける南下政策は完全に破綻し、ロシアは同年に敗北することになる。また当時のロシア社会は、貴族の上級士官が庶民の兵士を支配するという構造的問題を抱えていた。上官と兵士ではなく、主人と奴隷のような関係の軍隊は、ときに対立や非効率を産んだ。兵士の中にも自由思想の芽が育ち始めた時期で、無能な高級士官への反発が戦う意義への疑問を産み、士気を削いでいた。結果、サボタージュが頻繁に見られた。
1905年までには、革命集団は1880年代の圧制の打撃から回復していた。1898年にマルクス主義のロシア社会民主労働党が結成され、1903年、メンシェヴィキとボリシェヴィキに分裂した。ヴラディーミル・ウリャノフ(レーニン)は『何をなすべきか』を1902年に出版。社会革命党は1900年にハリコフで創設され、「戦闘組織」は1905年以降も有名な政治家を多く暗殺した。標的になった人に、1902年に暗殺された内務大臣のドミトリー・シピャーギンと、後任のヴャチェスラフ・プレーヴェ(1904年)がいる。こうした暗殺は、警察に更に強権を与えることになった。
ゲオルギー・ガポン神父が指導したゼネラル・ストライキの翌日の1905年1月22日(旧暦1月9日)、「血の日曜日」として知られるこの日、サンクトペテルブルクでは参加者11万人の大規模なデモ行進が行われた。当時、ツァーリがサンクトペテルブルクを離れていたことから、その与り知らぬ所で冬宮に軍隊が配置され、軍隊は各地で非武装のデモ隊に発砲した。死者の数についてはさまざまな推計があるが、一般には1,000人前後が死傷したと見られている。
この事件はロシアの多くの団体が抵抗運動を始めるきっかけとなったが、それぞれの団体ごとに異なった目的があり、同一の階級間でさえ統一された方向性はなかった。主な活動団体とその目的は、農民(経済問題)、労働者(経済問題と反工業化)、インテリゲンツィアと自由主義者(民権)、軍隊(差別と経済問題)、小規模な全国組織(政治問題と文化活動における自由)であった。
農民の経済はすさまじい状態だったが、統一した指導者もなく、各運動体はそれぞれの目標に向かっていた。騒乱は年間を通じて拡大し、初夏と秋に隆盛になり、11月に頂点に達した。小作人は小作料の低減を求め、作男は賃上げを、土地管理人は所有地拡大を求めた。土地の強奪(時に暴力や焼き打ちを伴う)や略奪、森林での違法な狩猟と伐採などが行われた。サマーラでは農民が自分たちの共和国を作り、政府軍に鎮圧されるまで違法な伐採と分配を行っていた。行動に現れる憎悪の程度は農民の状態と直接的に関連があり、グロドノとカウナス、ミンスク近郊といった幾分状況に恵まれた地域ではほとんど破壊活動がなかった一方、リヴォニヤとクールラントの無産大衆は襲撃と焼き打ちを行った。全体として、軍隊の投入が必要となった騒乱が3,228件、地主は計2,900万ルーブリの損害を被った。
ロシアの急進的な政党はこうした農村の騒乱に急速に浸透して行った。5月の全露農民連合に繋がる、農民の活動を組織・調整する協議会結成の動きが起こっていた。この協議会は地域代表からなり、社会革命党と緊密な関係があったが、現実的で首尾一貫した要求を打ち出せなかった。
1905年の事件後、農村の騒乱事件は1906年に再発し、1908年に終息した。政府が農民側に譲歩したことによって、農民による土地の再分配を政府が支持したと捉えられ、土地管理人や「農民でない」地主を追い出す襲撃が起きた。農民は全国的な土地再分配がすぐにでも行われると考え、既定のことのように捉えた。
労働者が抵抗運動に参加する主な手段はストライキであった。「血の日曜日事件」が起きるとすぐに、サンクトペテルブルクで大規模なストライキが起き、1月末までに40万人を越える労働者が参加した。このストはすぐにポーランドやフィンランド、バルト海地域の工業地帯に波及した。リーガでは1月13日(旧暦)にデモ参加者80人が殺され、数日後、ワルシャワでは100人を越えるスト参加者が路上で射殺された。ストライキは2月までにカフカスに、4月までにウラル地方以遠で起きるようになった。3月、学生がストライキに共鳴したため、高等教育機関は全て年内に強制的に閉鎖されることになった。10月8日(旧暦)の鉄道労働者のストライキはあっという間にサンクトペテルブルクとモスクワのゼネラル・ストライキに発展した。200を超える工場でストライキを組織する労働者協議会サンクトペテルブルクソビエト(大半が参加者がメンシェヴィキ)が、短期間ではあるが結成されることになった。10月13日(旧暦)までに200万人を超える労働者がストライキに参加したが、鉄道労働者はほとんどいなかった。
警察の統計によると、1901年から1911年にかけて革命運動によって殺されたのは約1万7,000人。[1] うち、1905年から1907年の2年間で約9,000人となっており、1905年2月から1906年5月にかけて殺された人数の内訳は以下の通り。
社会民主労働党、社会革命党、アナーキストの武装集団と「一匹狼のテロリスト」による暗殺が行われた。社会革命党の「戦闘組織」(Boevaia Organizatsiia)により、1905年以降有名な政治家が多く暗殺され、この中に内務大臣が二人(ドミトリー・シピャーギン(1902年)と後任のヴャチェスラフ・プレーヴェ(1904年))がいる。
政府の反応は非常に早かった。ツァーリは大きな変革は拒否する考えで、1月18日(旧暦)、内務大臣スヴャトポルク=ミルスキーを解任し、後任にブルイギンを任命した。叔父でモスクワ総督のセルゲイ大公が2月4日(旧暦)に暗殺されると、多少の譲歩に応じた。2月18日(旧暦)、ツァーリはブルイギン宣言を発した。この宣言はツァーリを輔弼する議会の創設、信教の自由、ポーランド人によるポーランド語の使用、農民の弁済額の減額を認めるものであった。しかしこれら譲歩をしても秩序は回復できなかったため、2月6日(旧暦)、ツァーリの諮問に応じるドゥーマの創設に応じたが、ドゥーマの権限が余りに小さいことと、選挙権に制限が加えられていることが明らかになると、騒乱は更に激化し、10月にはゼネストにまで発展した。
10月14日(旧暦)、ヴィッテとアレクセイ・オボレンスキーが十月宣言を執筆し、ツァーリに提出した。宣言は9月のゼムストヴォが要求した基本的な民権の承認、政党結成の許可、普通選挙に向けた選挙権の拡大などに沿った内容であった。ツァーリは3日かけて議論したが、虐殺を避けたいツァーリの意志と、他の手段を講じるには軍隊が力不足という状況から、遂に1905年10月30日(旧暦10月17日)に宣言に署名した。ツァーリはこれを悔しがり、「今度の背信行為は恥ずかしくて病気になりそうだ」と言った。
宣言が発布されると、あらゆる主要都市で宣言を支持する自発的なデモが起こった。サンクトペテルブルクなどのストライキは、正式に終了するか急速に消滅した。恩赦も行われた。しかし譲歩は騒乱に対する残忍な反動を伴っていた。公然と反ユダヤ攻撃を行う保守層の逆襲もあり、オデッサでは一日で約500人が殺された。ツァーリ自身は革命運動に参加した90%はユダヤ人だと言った。
最後の暴動はモスクワで勃発した。ボリシェビキは12月5日から7日(旧暦)まで、労働者に対する脅迫と暴力でゼネストを強行した。政府は7日に派兵し、市街戦が始まった。1週間後、セミョーノフスキー連隊が展開し、デモを粉砕するために大砲を使用し、労働者が占拠する区域を砲撃した。12月18日(旧暦)、約1,000人が死亡し、都市が廃墟になって、ボリシェヴィキは投降した。その後の報復で数知れぬ人々が殴打され殺された。
革命にあたって結成された政党に、リベラルな知識人政党である立憲民主党(カデット)、農民を指導者とする労働団(トルドヴィキ)、自由主義には消極的な10月17日同盟(オクテャブリストゥイ)、改革に好意的な地主連合があった。
25歳以上の市民を4階層に分けて選挙権を認める選挙法が1905年12月に公布された。ドゥーマの最初の選挙は1906年3月に実施され、社会主義者とエス・エル、ボリシェヴィキが棄権した。第一ドゥーマの議席は、カデットが170、トルドヴィキが90、無所属の農民代表が100、様々な傾向を持つ民族主義者が63、オクテャブリストゥイが16であった。
1906年4月、政府は新しい秩序に制限を加える基本法を公布した。ツァーリは専制君主として行政、外交、教会、軍事を完全に支配するものと確認され、ドゥーマはツァーリが任命する評議会より下位の会議とされた。ドゥーマは法案を承認しなければならず、ツァーリと評議会が法であり、「例外として」政府はドゥーマで審議させることができた。
同月、ロシア財政の建て直しのために約9億ルーブリの借り入れ交渉を終えると、セルゲイ・ヴィッテは辞任した。ツァーリはヴィッテに「不信感」を抱いたようである。後年「ロシア帝国末期の最も傑出した政治家」として知られるヴィッテの後任となったのは、皇帝の腰巾着といわれたイワン・ゴレムイキンである。
自由化への要求がさらに高まり、1906年7月、活動家に向けた綱領により第一ドゥーマはツァーリの命令で解散した。カデットが望み、政府が恐れたほどには、民衆からの広汎な反応はなかった。しかしピョートル・ストルイピン暗殺未遂でテロリストに対する公開裁判が始まり、8ヶ月以上に亘って1,000人を超える人々が絞首刑となった(絞首台はストルイピンのネクタイとあだ名された)。
本質においてロシアは変わらず、権力はツァーリが握り続け、富と土地は貴族が所有し続けた。ドゥーマの創設と弾圧は革命団体を崩壊させることに成功した。指導者は収監されるか亡命し、組織は混乱し、迷走した。これにより起きた分裂は、第一次世界大戦に触発されるまで、個人による過激派活動として続いた。
フィンランド大公国では前年6月17日に、総督ニコライ・ボブリコフが暗殺されるなど、民族主義が高まっており、帝政への反発が広がっていた。1905年のゼネラル・ストライキにより4階級の議会が廃止されることになり、近代的なフィンランド議会が創設され、1899年に始まったロシア化政策が一時停止されることになった。
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