アレクサンドル・イヴァーノヴィチ・ゲルツェンロシア語: Алекса́ндр Ива́нович Ге́рцен、ラテン文字転写の例:Aleksandr Ivanovich Herzen[1], 1812年3月25日ユリウス暦)または 4月6日グレゴリオ暦) - 1870年1月9日(ユリウス暦)または 1月21日(グレゴリオ暦)[2])は、帝政ロシア哲学者、作家、編集者である[3][4]。19世紀後半のロシアにおいて、農奴解放令実現に影響を与え『社会主義の父』として有名な人物の一人とされている[3][4]

概要 人物情報, 生誕 ...
アレクサンドル・イヴァーノヴィチ・ゲルツェン
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ニコライ・ゲーによる肖像画(1867年)
人物情報
生誕 (1812-04-06) 1812年4月6日
ロシアの旗 ロシア
モスクワ
死没 1870年1月21日(1870-01-21)(57歳没)
出身校 モスクワ大学
学問
研究分野 哲学
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経歴

1812年にロシア帝国モスクワにて、ロシア貴族地主)のイワン・アレクセイエヴィッチ・ヤコブレフ(Иван Алексеевич Яковлев、1795-1851年)の私生児として誕生。彼の母ヘンリエッテ=ヴィルヘルミーナ=ルイーゼ・ハーク(Henriette Wilhelmina Luise Haag)は現在のドイツシュトゥットガルトで、ロシア貴族の代表だった父の使用人をしていた時に身籠もり、父がモスクワに連れ帰った。姓は「彼の心の子」という意味合いを兼ねて、ドイツ語で心臓を表すHerzからとられた[5]。父はナポレオン戦争での1812年のモスクワの戦いの間、アレクサンドル1世に、ナポレオン・ボナパルトのメッセージを届ける伝令をしていた。

1830年、モスクワ大学に入学。1847年1月中、ロシア国境をわたりパリに居住した。パリではプルードンと協同した。同年9月にはイタリアへ向かい、翌1848年2月、ローマ滞在中にフランス2月革命の報を聞き、革命に加わるためパリに戻った。しかし、革命の失敗により1852年8月、ジュネーヴニース、パリと滞在し、ロンドンに向かった。グレート・ゲームの時代背景のなか、ロンドンでは現カムデン区キングス・クロス界隈でロシアツァーリズムに対して農奴解放を支援する「自由ロシア新聞」 (Free Russian Press) を起ち上げた。また、ゲルツェンを慕い、のちのロシア革命メンシェビキ派の代表格となったユーリー・マルトフがロンドンまで訪ねにきた。

1870年、パリ・コミューンの前年にフランス・パリで死去した。新聞「鐘」を主宰していた。墓所はニースにある。

影響

ピョートル・クロポトキンはゲルツェンに多大な影響を受けたことを自著で綴った。また、ゲルツェンは農奴である役者ミハイル・シェープキンとも交流があった。

著作

主な日本語訳

  • 『誰の罪』(梅田寛訳、春陽堂、1925年)。NDLJP:1016815/3
  • 『ロシアにおける革命思想の発達について』(金子幸彦訳、岩波文庫、改版1974年、復刊2002年ほか)
    • 新訳版『ロシアの革命思想 その歴史的展開』(長縄光男訳、岩波文庫、2024年3月)
    原題 Du développement des idées révolutionnaires en Russie
  • 『向う岸から』(外川継男訳、現代思潮社 古典文庫)。オンデマンド版2008年3月
  • 『過去と思索』(金子幸彦・長縄光男訳、筑摩書房(全3巻)、1998-99年/岩波文庫(全7巻)、2024年5月より改訂再刊)- 完訳
    • 元版『過去と思索 筑摩世界文学大系82・83』筑摩書房、1964-66年 - 抄訳
  • 『ゲルツェン著作選集』(森宏一訳、同時代社 全3巻、1985-86年)

脚注

関連文献

関連項目

外部リンク

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