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アメリカ合衆国のプロレスラー ウィキペディアから
"キラー" バディ・オースチン("Killer" Buddy Austin、本名:Austin Wesley Rogers、1930年2月27日 - 1981年8月12日)[2]は、アメリカ合衆国のプロレスラー。生年は1926年、1928年、1933年など諸説ある[1]。
ドリル・ア・ホール・パイルドライバーの名手として知られ、この技で1956年にアル・スミス、1957年にジョージ・サイモンという2人の対戦相手を死亡させたとして「キラー(殺し屋)」の異名が付けられたが[1]、このリング禍は虚構であり、実際にはそのような事故は起きていない[2]。
昭和期からの日本におけるプロフィールでは、ハイスクール時代にボクシングを始め[3]、海軍時代にレスリングの太平洋チャンピオンとなり、除隊後はボクサーとしてAAUにも出場した、などとされている[1]。
1956年(1954年ともされる[1])のデビュー後は、フランシス・ガボール(Francis Gabor)と名乗り、ジョン・ガボールことフリッツ・フォン・ゲーリングとのガボール・ブラザーズで東部地区にて活動[2]。ヒールの偽兄弟タッグとして、1960年にはWWEの母体であるニューヨークのキャピトル・レスリング・コーポレーションにて、レッド・バスチェン&ルー・バスチェン、マーク・ルーイン&ドン・カーティス、ベアキャット・ライト&スウィート・ダディ・シキなどの人気チームと対戦した[4]。
チーム解散後、バディ・オースチン(Buddy Austin)と改名し、フロリダではハンス・シュミットとのタッグなどで活動[5]。中西部地区では 1961年にサニー・マイヤースやターザン・タイラーとNWAセントラル・ステーツ・ヘビー級王座を争った[6]。
1963年にはキャピトル・レスリング・コーポレーションの後継団体WWWFに登場し、バディ・ロジャースの保持していたWWWF世界ヘビー級王座に何度となく挑戦[7]。3月7日にはグレート・スコットと組んでロジャース&ジョニー・バレンドからUSタッグ王座を奪取[8]、ベビーフェイスのポジションでスカル・マーフィー&ブルート・バーナードの凶悪コンビなどをチャレンジャーチームに防衛戦を行った[9]。王座陥落後の1963年下期からはヒールに戻り、第2代WWWF世界ヘビー級王者のブルーノ・サンマルチノにも再三挑戦している[10][11]。
1960年代後半はロサンゼルスのWWAを主戦場に活動。1966年8月5日にペドロ・モラレス、同年9月16日にボボ・ブラジル、1967年8月25日にアイアン・マイク・デビアスを下し、WWA世界ヘビー級王座を通算3回に渡って獲得した[12]。WWAではフレッド・ブラッシーとの金髪コンビでも活躍し、1967年10月20日にモラレス&ビクター・リベラを破りWWA世界タッグ王座にも戴冠している[13]。
WWA崩壊後は各地を転戦し、1969年4月16日にはハワイでリッパー・コリンズと組んでニック・ボックウィンクル&ボビー・シェーンからNWAハワイ・タッグ王座を、同年12月26日にはオーストラリアにてキング・イヤウケアをパートナーにスパイロス・アリオン&マリオ・ミラノからIWA世界タッグ王座をそれぞれ奪取している[14][15]。キャリア末期となる1970年代初頭は古巣の中西部地区で活動し、1971年6月にボブ・オートンと組んでザ・ストンパー&ボブ・ガイゲルを破り、NWA北米タッグ王座を獲得した[16]。
1981年8月12日、心臓発作のため死去[2]。51歳没。晩年はキリスト教のミニスターに転じていた[2]。
1962年4月、日本プロレスの『第4回ワールドリーグ戦』に初来日[17]。残留参戦した6月の選抜シリーズではマイク・シャープをパートナーに、6月4日に大阪府立体育館にて力道山&豊登からアジアタッグ王座を奪取した[18]。以降も日本プロレスの常連外国人選手となり、1963年秋の再来日では11月5日に同所で力道山のインターナショナル・ヘビー級王座に挑戦[19]したほか、力道山の最後の試合となった6人タッグマッチでの対戦相手にもなっている(12月7日、浜松市体育館における力道山、グレート東郷、吉村道明組vsオースチン、ザ・デストロイヤー、イリオ・ディパオロ組)[1][20]。同年12月15日に力道山が死去した際にも日本に滞在しており、そのまま日本で年を越し、追悼試合および日本プロレスの新体制発足第1戦のメインイベントに出場した[1][21]。
力道山死後の1967年2月の来日時には、2月7日に札幌中島スポーツセンターにて、新王者ジャイアント馬場のインターナショナル・ヘビー級王座に挑戦[22]。馬場&アントニオ猪木のBI砲が保持していたインターナショナル・タッグ王座にも、1969年11月1日にデストロイヤー、同年12月4日にドリー・ファンク・ジュニアと組んで挑戦している[23]。1971年9月開幕の『第2回NWAタッグ・リーグ戦』にはキラー・コワルスキーとのコンビで出場し、猪木&坂口征二と決勝を争った[24]。
1972年9月には国際プロレスに初参戦。ストロング小林のIWA世界ヘビー級王座挑戦は同時参加していたビル・ロビンソンに譲ったものの、ビル・ドロモと組んで小林&グレート草津のIWA世界タッグ王座に挑戦し、金網デスマッチにも出場して小林や草津、ラッシャー木村と対戦[25][26]。これが最後の来日となった(日本には残留参戦を含めて通算7回来日)[27]。
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