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フランスのバレエダンサー、女優、歌手 ウィキペディアから
ジジ・ジャンメール (Renée Marcelle "Zizi" Jeanmaire、1924年4月29日 - 2020年7月17日)は、フランスのバレエダンサー、歌手、俳優である[2]。夫はバレエダンサー、振付家のローラン・プティ[3]。
15歳でパリ・オペラ座バレエ団に入団するが、20歳で退団[1]。1949年、プティ振付のバレエ『カルメン』に主演し、国際的な名声を獲得する[4]。その後、プティと共にミュージカル映画やレヴューの分野にも進出[5]。シャンソン歌手として多数の楽曲を発表し、舞台俳優として演劇やオペレッタにも出演するなど、ジャンルを越えたエンターテイナーとして活躍した[1][6]。
1924年4月29日、パリで、父マルセル・ジャンメールと母オルガの間に生まれる[1]。本名はルネ・ジャンメールだが、母オルガが幼い娘のことを「モン・ジェジュ(私のイエス様)」と呼んでいたことから、「ジジ」というあだ名がついた[7]。
ジャンメールがバレエに出会ったきっかけは、祖父に連れられて観劇したシャルル・グノーのオペラ『ロメオとジュリエット』であった[2]。劇中に登場するバレエに魅了されたジャンメールは、ダンサーになることを志し、1933年、9歳でパリ・オペラ座バレエ学校に入学する[2]。バレエ学校の同期には、後に夫となるローラン・プティもいた[8]。
パリ・オペラ座バレエ学校では、生徒がパリ・オペラ座バレエ団のダンサーを一人選んで世話役になってもらうという慣習があるが、ジャンメールの世話役を務めたのはイヴェット・ショヴィレだった[9]。ジャンメールはショヴィレの紹介で、バレエ教師ボリス・クニアセフに師事し、技術を磨くことができた[9]。
1940年、15歳でパリ・オペラ座バレエに入団する[1]。しかし、バレエ団内での自分の階級に不満を抱くようになり、1944年、パリ解放の直前にオペラ座を退団した[7]。その後、セルジュ・リファール率いるバレエ・リュス・ド・モンテカルロに参加し、続いてバジル大佐率いるオリジナル・バレエ・リュスにも客演した[10]。
1948年、ローラン・プティが旗揚げしたバレエ・ド・パリに参加し、その看板ダンサーとなる[4]。1949年、プティ振付によるバレエ『カルメン』のロンドン初演が大評判を呼び、主演のジャンメールとプティは国際的な名声を手にする[4]。『カルメン』はニューヨークでも上演され、高い評価を受けた[11]。
ニューヨークでミュージカルに魅せられたプティは、シャンソンでミュージカルを作ろうと思い立つ[12]。ジャンメールは元々歌が上手くなかったが、3ヶ月に渡る歌の特訓の末、この作品の主役の座を手に入れた[11]。1950年、レーモン・クノー台本、ジャン=ミシェル・ダマーズ作曲による『ダイヤモンドを噛む女』が初演され、ジャンメールは本作の主題歌でフランス・ディスク大賞を獲得した[2][11]。
『ダイヤモンドを噛む女』で注目を集めたジャンメールは、映画会社RKOのハワード・ヒューズと契約し、1952年の『アンデルセン物語』で映画初出演を果たす[13][14]。この映画を制作したサミュエル・ゴールドウィンの提案により、ジャンメールは本名の「ルネ」ではなく、幼少期のあだ名である「ジジ」を名乗るようになった[1][15]。
その後、プティと仲違いしたジャンメールはバレエ・ド・パリを退団し、1954年にブロードウェイ・ミュージカル『ピンク・タイツの女』に出演するが、同年に二人は和解し、結婚した[2]。翌1955年には娘ヴァランティーヌが生まれた[1]。
ジャンメールとプティは、1957年にレヴュー『ミュージック・ホールのジジ』を上演し、ショービジネスの世界に参入する[16]。1961年にジャンメールが歌った楽曲「私の羽根飾りのトリック」は、その後のレヴューでも繰り返し登場し、ジャンメールのテーマソングとなった[2]。1970年、ジャンメールとプティはパリの老舗ミュージックホールであるカジノ・ド・パリを買収し、レヴューを上演するようになったが、資金不足のため、1975年末をもってカジノとの契約は打ち切られた[17][18]。その後もジャンメールは、70代になるまでプティ作のレヴューへ出演を続けた[1]。
プティが1972年から1998年まで芸術監督を務めたマルセイユ・バレエ団でも、ジャンメールはダンサーとして活躍した[1]。1975年、ジャンメールはバレエ『幻想交響曲』の公演中にアキレス腱切断という大怪我を負い、ダンサー生命の危機を迎えるが、1977年には舞台に復帰する[2][18]。その後、プティ振付のバレエ『こうもり』(1979年)のベラ役、『眠れる森の美女』(1990年)のカラボス役などを初演した[19][20]。
1998年、プティがマルセイユ・バレエ団を辞職すると、夫婦でスイスのジュネーヴに移住した[2]。2000年、パリ・オペラ座で、シンガーソングライターとして活動する娘ヴァランティーヌの楽曲を披露したのが、ジャンメールの最後の公演となった[1]。
2008年、自伝『そして私の心に残された思い出』を出版している[2][7]。
2011年7月10日、プティと死別。
2020年7月17日、スイスのヴォー州トロシュナの自宅で、脳出血により96歳で死去した[21]。
ジャンメールの功績に対しては、芸術文化勲章シュヴァリエ、レジオン・ドヌール勲章オフィシエ、国家功労勲章コマンドゥールなどが授与されている[2]。
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