キリシタン(吉利支丹、切支丹、ポルトガル語: Cristão, 古いポルトガル語: Christan)は、日本の戦国時代から江戸時代、更には明治の初めごろまで使われていた日本語(古語口語)である。江戸時代以降の当て字である『切死丹』『鬼理死丹』『鬼利至端』『貴理死貪』[1]には侮蔑の意味が込められており、蔑称として使われてきた。
元々はポルトガル語で「キリスト教徒」を指す言葉であり、英語の「クリスチャン」(Christian)と同じ意味である。本来のポルトガル語ではキリスト教徒全般を指すが、日本語では戦国時代以後、日本に伝来したキリスト教の信者、伝道者またその働きについてを指す。キリスト教の禁令はローマカトリック教会に限定されていたわけではなく[注釈 1]、平戸市のオランダ倉庫はキリスト教の年号(1639年)を使用したことを理由に破壊され[3]、オランダ人墓地も同時期に破却、死体は掘り返され海に投棄された[4]。1654年、ガブリエル・ハッパルトは長崎での陸上埋葬の嘆願をしたが、キリスト教式の葬儀や埋葬は認められず、日本式で行うことを条件に埋葬が許可された[5][6][7][注釈 2]。
江戸幕府はプロテスタントとカトリックの教義は同じもので、教派の違いは重要でないとし、オランダ人もキリシタンであると認識していた[2]。オランダ人の記録によると、徳川家光はオランダ人の宗教がポルトガル人の宗教と類似したものであると理解しており、オランダ人を長崎の出島に監禁した理由の一つにキリスト教の信仰があったとしている[11][注釈 3][注釈 4]。
1673年、イギリス船リターン号が来航し通商再開を求めたが、イギリス人のキリスト教禁令遵守を疑った幕府は拒否した[18][注釈 5]。
エンゲルベルト・ケンペルは1690年代の出島において、オランダ人が日本人による様々な辱めや不名誉に耐え忍ばなければならなかったと述べている。キリストの名を口にすること、宗教に関連した楽曲を歌うこと、祈ること、祝祭日を祝うこと、十字架を持ち歩くことは禁じられていた[19][注釈 6]。
日本の漢字では、「吉利支丹」などと書く。江戸時代以降は禁教令や踏み絵による弾圧に伴い、侮蔑を込めて「切死丹」、「鬼理死丹」という当て字も使われるようになった。5代将軍徳川綱吉の名に含まれる「吉」の字をはばかって、綱吉治世以降は「吉利支丹」という字は公には使われなくなり、「切支丹」という表記が一般となった[1]。
「切支丹」はその後、カタカナで「キリシタン」と表記されるようになり、近代の子孫である隠れキリシタンと区別されるようになった。またキリシタンは現代の日本のキリスト教徒、キリスト教と区別するためにも使用されている[1]。現在の日本では、「キリシタン」という言葉は「キリシタン大名」や「隠れキリシタン」など、日本の歴史用語として使用されており、現代日本のキリスト教徒を指す場合は「クリスチャン」を用いる[1][注釈 7]。
17世紀初頭にはキリシタン信徒は37万人を超えたとC・R・ボクサーは推定している[22]。
ヌエバ・エスパーニャには多くのキリシタンが宗教的迫害を逃れるために移住しており、商売や学問で成功を収めるものが多くいた[23][24]。日本人や中国人等の東洋人は法的にはインディオ(先住民)と見なされていた[25]。17世紀初頭には、フィリピン諸島に1,500人から3,000人の日本人が居住していた[26]。フィリピンにいた日本人のほとんどは商人だったと考えられているが、徳川幕府に迫害されていたキリシタンもフィリピンに到着してきた[27]。1610年から1614年の間に、メキシコ市には82人の日本人がいたことが分かっており、そのうち19人が1610年、63人が1614年に移住していた[28][注釈 8]。
ヌエバ・ガリシアの首都であるグアダラハラ (メキシコ)では移住して成功を収めた日本人が何人か記録されている。フアン・デ・パエスは1620年代に移住した後にビノ・デ・ココス(英語版)[注釈 9]やメスカルなどの蒸留酒を販売して1650年には店のオーナーとなった。1653年にはグアダラハラの上位20人「albacea, heredero y tenedor de bienes」になるほど裕福となり、1657年から1661年には「mayordomo y administrador de los propios y rentas de la catedral」に就任した。1675年に死去したときには、大聖堂を所有する領主の墓と同じ区画に埋葬され、数万ペソに上る財産を遺言に残した[29][30]。1679年の国勢調査では日本人移民ルイス・デ・エンシオの未亡人マルガリータ・デ・エンシオの家には、10人のメスティーソと4人の黒人の使用人がおり、この数字は他の2人の商人の家だけが上回っており、エンシオ家の栄華を物語っている[31][32]。
17世紀には日本人のルイス・デ・ササンダが修道会に入会を許されている。1613年に殉教した日本人ミゲル・ササンダの息子であったことが、入会を容易にしたと考えられている[33][34][注釈 10]。日系人のマヌエル・デ・サンタフェは大学の哲学部を卒業後、1674年に医学部に進学したことが分かっている。18世紀初頭にアウグスチノ会の総長であったフレイ・ガスパル・デ・サン・アグスティンは日本人キリシタンを「アジアのスペイン人」とし、文化的である点で区別されると論じている[35]。
ヨーロッパでは帯剣によって社会的地位を示すことがあったとされるが[36]、キリシタン侍のフアン・デ・ラ・バランカは帯刀と納税免除の特権[注釈 11]を与えられていた。キリシタン侍達の代父母はヌエバ・エスパーニャの上流階級から選ばれており、彼らはチーノスの中では特権的な階層に属していた[37]。オアハカ州に移住していた日本人フランシスコ・デ・カルデナスとその息子達も帯刀の特権を1644年に認められており、キリシタン侍の多くが帯刀の特権を付与された[38]。ベラクルス州で兵士として仕えた日本人キリシタンも同様に帯刀を許されていたという[37]。
フレデリック・クレインスは海外の歴史学者のキリシタン研究の最初期のものはC・R・ボクサーの『The Christian Century in Japan』(1951年)としている[39]。日本文学の研究者マーク・ウィリアムズ[注釈 12]によると、ボクサーの著作以降は鎖国から1853年にペリーが来航するまで日本は外界から閉ざされていたと理解されてきたが、ロナルド・トビは鎖国という前提そのものに疑問を呈し、ターンブル等の多くの歴史学者によってボクサーの単純化された歴史についてより細かな理解を得るために多くの研究がなされてきた[40]。
フレデリック・クレインスやC・R・ボクサーは弾圧時代以降のキリシタンの研究において、ジョージ・エリソンの『Deus Destroyed』(1973年)は先駆的な貢献をしたと位置づけている[39][41][40][注釈 13]。ジョージ・エリソンはホロコーストで指導的な役割を果たしたナチスのアドルフ・アイヒマンとキリシタン弾圧の責任者を比較することにより、キリシタンの弾圧時代についての理解を深めることに貢献し[43][44]、外来宗教の信用を失墜させる徳川幕府の試みを明らかにした[40]。近世日本史を専門とするピーター・ノスコ[注釈 14]は、キリ・パラモア[注釈 15]の『Ideology and Christianity in Japan』(2009年)はジョージ・エリソンの著作を土台として、17世紀初頭から19世紀までの日本における反キリスト教思想の理解について大きな貢献をしたと述べている[40][45][注釈 16]。
近年の歴史学者ではヤン・ロイヒテンベルガー[注釈 17]の著作『Conquering Demons』(2013年)が、現代の世界での日本の位置づけといった文脈でキリシタンが参照されることに着目している[46]。ヤン・ロイヒテンベルガーは伴天連記、吉利支丹物語、切支丹宗門来朝実記を紐解いていき、17世紀初頭にキリシタンが日本列島から取り除かれた後に、神話化したキリシタンによる日本征服の偽史が大量に捏造されたと指摘している[47]。
ヤン・ロイヒテンベルガーはキリシタンが「西洋との最初の接触点として、西洋の影響や新しい世界における日本の位置に対する継続的な不安を現す構成概念」[46]となったことを解き明かした。そしてキリシタンは「グロテスクで不気味な詐欺師として描かれ、その唯一の使命は私利私欲のために他国を侵略する」[46]という虚像が作られていったと論評している[46]。
切支丹宗門来朝実記では、日本が神国であることの根拠を野蛮人の侵略を幾度となく撃退した物語に求めており[48]、こうした文書が流布されることで、軍事的に他国よりも強く、外国よりも文化的、宗教的に優越しているとの自己イメージを持った日本人のアイデンティティが形成されていったと論じている[48]。
時代が経過すると中世の説話に登場する悪役のような奇想天外な描写にキリシタンは変容していき、キリシタンを野蛮だが、身近な他者として永続させると同時に「その他者と対立する神聖で文明化された日本を組み立てるのに寄与した」[49]と提示している。18世紀から19世紀にかけて、日本のアイデンティティを構成する上でキリシタンは重要な位置を占めるようになり、世界における日本の立場への不安を反映し、国家を神聖視させる言論に貢献する役割を果たしていることを示唆した[50]。
小説・文芸
日本文学を専門とする文学者であるレベッカ・スッター[注釈 18]は著書『Holy Ghosts: The Christian Century in Modern Japanese Fiction』(2015年)においてキリシタンに対する近代以降の日本人の見解を提示している。スッターはキリシタンを外国に対する恐怖と憎悪[注釈 19]という、日本人論を支配する典型的な2つの感情を表現するために用いられていることを指摘している[52]。1960年から1990年代半ばにかけて、小説の領域ではキリシタンの文化は娯楽ではなく危険と悪の象徴へと変容し、キリシタンの登場人物は一貫して否定的な存在として描かれ、絶え間のない悪魔化が行われるようになったと述べている[52]。
スッターはキリシタンの文化的受容と日本人論との関連も指摘し、「日本文化を例外的であると特徴づける」[53]傾向や「日本人は文化的および社会的に均質な人種であり、その本質は有史以前から現代に至るまでほとんど変わっていない」、そして「他のすべての既知の民族とは根本的に異なる」[53]とする前提があると解説している。多くの日本人論によると日本と西洋はあらゆる点でかけ離れているが、キリシタンやキリスト教を通じて西洋のステレオタイプを語るときは、日本が西洋より優れたものとして描かれると記述している[54]。
→「
聖人暦(ルター派)(英語版)」、「
聖人暦(英国国教会)(英語版)」、および「
聖人暦(聖公会)(英語版)」も参照
英国国教会は豊臣秀吉が26人の殉教者を処刑した日の翌日である2月6日を1959年に記念日とした[57]。アメリカ福音ルター派教会でも、2月5日を記念日としている。英国国教会[58]とルーテル教会[59]はフランシスコ・ザビエルを崇敬し、命日の12月3日を記念日としている。
現存する最古の西洋人墓碑は江戸時代後期、元出島オランダ商館長ヘンドリック・ホットフリート・デュルコープ(1736-1778)のものである。オランダの日誌によるとキリスト教式の葬儀が異例ながら許された[8][9]。墓碑は1779年1月4日に設置された[10]。
家光はキリスト教への恐怖からオランダ人を出島に移したが、外国との貿易に付随する政治的な利害関係を排除するためでもあった[11]。
幕府のオランダ人への警戒感は秀忠の時代に遡る。イギリス商館長リチャード・コックスは着任早々、オランダ人がイギリス人と称して海賊行為を行い、イギリス人の悪評が立っていることに衝撃を受けたという[12]。オランダ人に対抗するためにリチャード・コックスはオランダがスペイン王国の一部であるためオランダ人は反逆者であり、いずれ日本国を滅ぼすかもしれないと幕府に訴えた。またオランダは英国のおかげで独立しており、オランダは英国の属国だとの風評を立てた[13]。
オランダ商館長ヤックス・スペックスもコックスと同様に、オランダ総督をオランダ国王として虚偽の呼称を使用し、オランダ国王がキリスト教王国の中でも最も偉大な王であり、全ての王を支配しているとの風評を広げようとした。コックスはこれを逆手にとり、自国がオランダよりはるかに優れていることを大名や役人の前で説明し、これを信じた島津家久から、オランダ人でなくイギリス人に薩摩での貿易を許可するとの言質をとることに成功した[14]。
1616年の二港制限令によってイギリス人とオランダ人を長崎と平戸に閉じ込めることが決定された。勅令はコックスが江戸にいる間のことだったが、これはコックスの発言が彼が意図した以上に幕府に警戒感を抱かせたことが発端となった可能性が指摘されている[15]。コックスは秀忠に謁見しようとしたが、家康宛ての書状であるとの表向きの理由で拒否された[16]。さらに宣教師も追い打ちをかけて、連邦共和国を巡ってスペインが困っているのは、イギリスの支援があるからであり、イギリス人が正統な国王に対して対抗する手段を与えたとの有害な事実を広めた[17]。
また、カトリック・プロテスタントその他を問わず日本のキリスト教徒が、過去も含めて「キリシタン」と自称することもない。特にカトリック信徒が日本一多い長崎県(カトリック長崎大司教区を擁する)では、かつての禁教・迫害などの辛い歴史を連想させるため、この呼称を嫌うカトリック信徒も少なくない。[要出典]
1565年から1700年の期間に名前が特定できた日本人は35人だけだった。
東洋人(チーノ)のグレゴリオ・ロペスも司教に叙階されている[33]。
James Harry Morris, RETHINKING THE HISTORY OF CONVERSION TO CHRISTIANITY IN JAPAN: 1549-1644, PhD Thesis, University of St Andrews, 2018, p.16, "The term comes from the Portuguese, Christão/Cristão. Various characterizations have been used (mostly dating from after Christianity’s proscription) including 幾利紫旦, 貴理志端, 鬼利至端, 貴理死貪, and 切死丹. Originally rendered 吉利支丹, the spelling was changed to 切支丹 because the character kichi 吉 appeared in the name of Shogun (Shōgun 将軍), Tokugawa Tsunayoshi 徳川綱吉 (1646-1709CE) who did not wish to be linked to Christianity. In recent years the term has been rendered in katakana (カタカナ・片仮名) as キリシタン allowing scholars to distinguish between the Kirishitan and their modern descendants (Kakure Kirishitan カクレキリシタン), and between the Kirishitan and modern day Japanese Christians and Christianity."
Boxer: The Great Ship From Amacon (Review Article), Nicholas Cushner, Philippine Studies vol. 9, no. 3 (1961): 533—542. "The Dutch of course were delighted with the turn of events as they now had the silk trade to themselves. But the Shogun soon realized that "You Hollanders are all Christians like the Portuguese. You keep Sunday. You write the date of Christ's birth over the doors and on the tops of your houses, in the sight of everyone in our land. You have the ten commandments, the Lord's prayer. . . . The principles are the same, and we consider the differences between you unimportant...""
Japan’s Encounters with the West through the VOC. Western Paintings and Their Appropriation in Japan, Mediating Netherlandish Art and Material Culture in Asia, Yoriko Kobayashi-Sato, December 2014, (pp.267-290)
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The English and the Control of Christianity in the Early Edo Period, Timon Screech, Japan Review 24 (2012), p. 30 "Little has been said above about the Dutch. Their base was beside that of the English on Hirado. On first arrival in Japan, Cocks and Saris were shocked to find that individual Dutchmen (not the Company itself) were billing themselves as “English,” which they did so as to engage in piracy without sullying their own country’s name.161 Not withstanding the honours given to Addames, the reputation preceding the English was accordingly not good."
The English and the Control of Christianity in the Early Edo Period, Timon Screech, Japan Review 24 (2012), p. 31, "The best strategy was to link the Dutch to the Jesuits, which was intensely done after the first change in shogunal attitude in winter 1613–1614, after Saris had left and Cocks had gained some purchase on the situation in Japan. Jacques Speckx (1585–1652), chief of the Dutch factory, he reported, proclaimed that in Asia, “he took the Graue Moris [graf Maurits (1567–1625)] and the Estates of Holland to be as much as the King of England, if not more.”166 Yet Cocks countered, telling Matsura Takanobu that the Dutch were “natural vassals of the King of Spain,” and “in open rebellion cast hym offe,” referring to the Spanish Netherlands. Takanobu should beware, for the Dutch “might breed some alteration in the harts of his owne vasseles to doe as the Hollanders had done,” with wider ramifications, to “make others as themselves are, to the over throwe of the state of Japan.”167 Cocks pursued a dual line: the United Provinces were rightfully part of Catholic Spain, so the Dutch were rebels, and, though this was contradictory, it was England that had secured such independence as the Dutch enjoyed, and so, in a manner, was overlord to them. He informed the Hirado court “that all might heare” how, “the King of England has vassales much greater than the prince (or county [count]) w’ch governs the Hollanders, and that their state or government was under the command of the King of England, he having garrisons of English soldiers in their cheefest fortes, or places of strength they had.”168"
The English and the Control of Christianity in the Early Edo Period, Timon Screech, Japan Review 24 (2012), p. 31-32 "Cocks was drawing attention to the Cautionary Towns, placed under English control as surety for Elizabeth’s enormous loans to the Dutch cause.170 But it was stretching the point to imply that the United Provinces were under English rule in any comprehensive way. Still, on hearing a Dutchman claim “their kinge of Holland to be the greatest kinge in Christendome, and that held all the others under,” Cocks weighed in: “I was not behindhand to tell him hee need not lye so oude, for that they had no kinge at all in Holland, but wer governed by a count, or rather, they governed him,” that is, he was an elected stadtholder, not a king, which to a Japan just emerging from civil war might seem dangerously loose. And Cocks continued, forgetting Spain: “If they had any kinge of which they might boast, it was the Kinge ma’tes of England, who hitherto have been their protector, otherwise they had never bragged of their states.”171 "
The English and the Control of Christianity in the Early Edo Period, Timon Screech, Japan Review 24 (2012), p. 32, "The dénouement of summer 1616 occurred while Cocks was in Edo; indeed, I have argued here that Cocks’s presence was the trigger. But he sorely overplayed his hand. Cocks’s remarks caused alarm more widespread than he could have intended. As well as banishing the bateren shūmon, Hidetada decided to confine the English and the Dutch.177"
The English and the Control of Christianity in the Early Edo Period, Timon Screech, Japan Review 24 (2012), p. 32, "Cocks found himself blocked. James’s latest letter, brought on the Thomas or Advice, was refused, ostensibly on the grounds it was addressed to Ieyasu (recently deceased), and Cocks was allowed no audience.178 All the sub-factories were closed, with trade thereafter conducted only from Hirado. Cocks lamented they “might as wel banish vs right out of Japon as bynd vs to such a order.”179 He was informed by Kakuzeamon that it was temporary, until Japan was cleared of priests, after which trade would be reexpanded.180 But no reexpansion came."
The English and the Control of Christianity in the Early Edo Period, Timon Screech, Japan Review 24 (2012), p. 33, "Hidetada, now free of his father, made large-scale alterations to Ieyasu’s dispensation, not just with reference to international commerce. “[E]very one complayneth,” said Cocks, “that matters aer worse than in the ould mans daies, and that this man doth nothing but change offecers and displace tonos [daimyo].”181 The sequence with which this paper has engaged ended that autumn. The Jesuits were gone, or at least should have been. They were not supine, however; though few in number and living in hiding (as in England), they leaked out damaging facts. They tried to turn the tables over the matter of the United Provinces, pointing out the King of Spain was only troubled there because of English support, and “thenglish were they w’ch gave hem [the Dutch] meanes to stand against their naturall prince.”182"
The Dutch and English East India Companies Diplomacy, Trade and Violence in Early Modern Asia, Edited by Adam Clulow and Tristan Mostert, Amsterdam University Press, DOI: 10.2307/j.ctv9hvqf2, ISBN(s): 9789048533381, 97894629832982018, p. 92., "In the end, the bakufu did not accept the English, because they could not rely on their compliance with Tokugawa prohibitions of Christianity. After the Return incident, no European embassies visited Japan for more than a hundred years before the arrival of Adam Laxman from Russia in October 1792."
Imagining Global Amsterdam: History, Culture, and Geography in a World City, M. de Waard / Amsterdam University Press, Amsterdam 2012, p. 37., "we had to endure many shameful restrictions imposed by those proud heathens. We may not celebrate Sundays or other festivities, we may not sing religious songs or speak our prayers; we never pronounce the name of Christ, nor may we carry around the image of the cross or any other symbol of Christianity. In addition we have to endure many other shameful impositions, which are very painful to a sensitive heart. The only reason which induces the Dutch to live so patiently with all these pains is the pure and simple love for profit and for the costly marrow of the Japanese mountains. (1964, 72)". Kämpfer, Engelbert. Geschichte und Beschreibung von Japan. Vol. 2. Stuttgart: Brockhaus, 1964. p. 72
Gulliver’s Travels, Japan and Engelbert Kaempfer, Bodart-Bailey Beatrice M, Otsuma journal of comparative culture, Vol. 22, pp. 75-100, "Even though the Dutch argued that they assisted the Japanese in political rather than religious strife, the event was much condemned by other European nations. "
"Dr. John Francis Gemelli Careri, Voyage Round the World, 1700, Book IV, Chapter II, p. 291. "making no scruple for their Interest to trample the Holy Image of Christ, which the English refus’d to do.”
Charles R. Boxer. Portuguese merchants and missionaries in feudal Japan, 1543-1640, Variorum,
Aldershot, 1986, pp. 308, 315-317.
Melba Falck Reyes and Héctor Palacios, El japonés que conquistó Guadalajara. La historia de Juan de Páez en la Guadalajara del siglo XVII (Guadalajara: Universidad de Guadalajara, Biblioteca Pública del Estado de Jalisco Juan José Arreola, 2009
Thomas Calvo, (1989), “Japoneses en Guadalajara: ‘Blancos de Honor’
durante el Seiscientos mexicano,” La Nueva Galicia en los siglos XVI y XVII, Guadalajara: El Colegio de Jalisco, Centro de Estudios Mexicanos y Centroamericanos, pp. 159-171., 534-535
Déborah Oropeza Keresey, Los “indios chinos” en la Nueva España: la inmigración de la nao de China, 1565-1700, PhD Tesis, 2007, pp.138-139, "El “indio chino” ocupó un lugar ambiguo en la sociedad novohispana. El hecho de que era originario de las Indias, y por lo tanto indio, pero no natural del suelo americano, creó confusión en la sociedad y en las autoridades novohispanas....En ocasiones quedaba claro que jurídicamente hablando el oriental era considerado indio."
Déborah Oropeza Keresey, Los “indios chinos” en la Nueva España: la inmigración de la nao de China, 1565-1700, PhD Tesis, 2007, "Manila también mantuvo lazos comerciales con Japón, específicamente con el puerto de Nagasaki donde existía un asentamiento portugués desde 1571. Este comercio se mantuvo hasta el año de 1639 en que Japón cerró las puertas al comercio ibérico a favor del holandés. En las primeras décadas del XVII encontramos una colonia de entre 1,500 y 3,000 japoneses en la región de Manila, administrados por los franciscanos en el convento de Nuestra Señora de la Candelaria de Dilao.104"
Déborah Oropeza Keresey, Los “indios chinos” en la Nueva España: la inmigración de la nao de China, 1565-1700, PhD Tesis, 2007, pp. 191-192, "Probablemente la mayoría de los japoneses en Filipinas eran comerciantes, aunque también llegaron al archipiélago japoneses cristianos perseguidos por las autoridades niponas.105"
Déborah Oropeza Keresey, Los “indios chinos” en la Nueva España: la inmigración de la nao de China, 1565-1700, PhD Tesis, 2007, p. 112, "Aunque sabemos que entre 1610 y 1614 hubo por lo menos 82 japoneses en la ciudad de México (19 entraron en 1610 y 63 en 1614; Chimalpahin, 2001, pp.217, 367-397), por nombre sólo hemos rastreado 35 “japones” en el periodo 1565-1700."
Déborah Oropeza Keresey, Los “indios chinos” en la Nueva España: la inmigración de la nao de China, 1565-1700, PhD Tesis, 2007, p. 122, "El primero, quien había llegado a la Nueva Galicia alrededor de 1620, fue socio en algunos negocios, incluyendo el de vino de cocos y mezcal, y en 1650 ya era dueño de una tienda en dicha Audiencia. Páez, quien probablemente nació en Guadalajara, compró “mucha cantidad de ropa” en 1638 y 220 novillos en 1653. Prestó también dinero a vecinos y mercaderes de la región. Thomas Calvo sostiene que Juan de Páez llegó a ser mucho más que un comerciante, y le califica como un “experto financiero”, quien entre otras cosas, fue el administrador de uno de los pocos mayorazgos de Guadalajara de 1657 a 1661 y el “albacea, heredero y tenedor de bienes” de veinte notables personajes de su tiempo. "
Thomas Calvo, (1989), “Japoneses en Guadalajara: ‘Blancos de Honor’ durante el Seiscientos mexicano,” La Nueva Galicia en los siglos XVI y XVII, Guadalajara: El Colegio de Jalisco, Centro de Estudios Mexicanos y Centroamericanos, p. 542.
Thomas Calvo, (1989), “Japoneses en Guadalajara: ‘Blancos de Honor’ durante el Seiscientos mexicano,” La Nueva Galicia en los siglos XVI y XVII, Guadalajara: El Colegio de Jalisco, Centro de Estudios Mexicanos y Centroamericanos, p. 545.
Déborah Oropeza Keresey, Los “indios chinos” en la Nueva España: la inmigración de la nao de China, 1565-1700, PhD Tesis, 2007, p. 122, "En el padrón de 1679 del centro de la ciudad de Guadalajara, la casa de Margarita de Encío, viuda de Paéz, contaba entre su servidumbre con diez mulatas y cuatro negras, cifra sobrepasada únicamente por las casas de dos ricos mercaderes, lo cual demuestra el éxito profesional y económico de dicho “japón”.372"
Déborah Oropeza Keresey, Los “indios chinos” en la Nueva España: la inmigración de la nao de China, 1565-1700, PhD Tesis, 2007, p. 147, "Si consideramos que el Tercer Concilio Provincial de 1585 en Nueva España dejó la puerta abierta para la ordenación de indios y mestizos,444 y que en Oriente se llegó a ordenar (no sólo como sacerdote, sino como obispo) al chino Gregorio López, no resulta del todo sorprendente el hecho de que en el siglo XVII, Fray Luis de Sasanda, “japón”, por ejemplo, ingresara a la provincia franciscana de San Pedro y San Pablo en Michoacán. Muy probablemente, el hecho de que era hijo de Miguel Sasanda, japonés martirizado en 1613, facilitó su entrada a dicha provincia.445"
Morales, Francisco O.F.M, Ethnic and Social Background of the Franciscan Friars in Seventeenth-Century Mexico. Washington D.C: Academy of American Franciscan History, 1973, p. 50
Déborah Oropeza Keresey, Los “indios chinos” en la Nueva España: la inmigración de la nao de China, 1565-1700, PhD Tesis, 2007, p.148, "El hecho de que algunos japoneses como Fray Luis de Sasanda y Juan de Páez lograran introducirse en ámbitos relevantes, revela que no todos los “indios chinos” eran vistos de igual manera por la sociedad novohispana. También sabemos de un “indio japón blanco”, Manuel de Santa Fe, quien se graduó de la Facultad de Filosofía de la Universidad y en 1674 se matriculó en la Facultad de Medicina.448 En las Filipinas, Fray Gaspar de San Agustín, procurador de los Agustinos en el temprano siglo XVIII, sostenía que mientras que los “Indios asiáticos de Filipinas” y de las “demás naciones de la India oriental” eran muy similares, se distinguían los “Japoneses que son los Españoles de Asia” y los Chinos, por su “cultura de política y amor a las letras”.449 Probablemente se tenía la misma apreciación en la sociedad novohispana."
Angus Patterson, Fashion and Armour in Renaissance Europe: Proud Lookes and Brave Attire (New York: Harry N. Abrams, 2009), 28.
Rubén Carrillo Martín, ASIANS TO NEW SPAIN ASIAN CULTURAL AND MIGRATORY FLOWS IN MEXICO IN THE EARLY STAGES OF “GLOBALIZATION” (1565-1816), 2015., p. 107
Rubén Carrillo Martín, ASIANS TO NEW SPAIN ASIAN CULTURAL AND MIGRATORY FLOWS IN MEXICO IN THE EARLY STAGES OF “GLOBALIZATION” (1565-1816), 2015., pp. 98-99
Interactions between Rivals: The Christian Mission and Buddhist Sects in Japan (c. 1549–c. 1647). Edited by Alexandra Curvelo and Angelo Cattaneo. Peter Lang, 2021., Frederik Cryns, Monumenta Nipponica, Volume 78, Number 2, 2023, pp. 233-239 (Review), "C. R. Boxer introduced several cultural aspects of the Christian mission and cross-cultural influences in his The Christian Century in Japan 1549–1650 (University of California Press, 1951). Other studies include Michael Cooper, ed., The Southern Barbarians: The First Europeans in Japan (Kodansha International in cooperation with Sophia University, 1971); Ikuo Higashibaba, Christianity in Early Modern Japan: Kirishitan Belief and Practice (Leiden: Brill, 2001); and George Elison, Deus Destroyed: The Image of Christianity in Early Modern Japan (Council on East Asian Studies, Harvard University, 1973). The volume under review can be positioned as a reassessment of the conclusions reached in Deus Destroyed."
Jan C. Leuchtenberger: Conquering Demons: The “Kirishitan”, Japan, and the World in Early Modern Japanese Literature. (Michigan Monograph Series in Japanese Studies, 75.) xii, 240 pp. Ann Arbor, MI: Center for Japanese Studies, The University of Michigan, 2013. $65. ISBN 978 1 929280 77 3., Mark Williams, Bulletin of the School of Oriental and African Studies , Volume 78 , Issue 1 , February 2015 , pp. 224 - 226
James Harry Morris, RETHINKING THE HISTORY OF CONVERSION TO CHRISTIANITY IN JAPAN: 1549-1644, PhD Thesis, University of St Andrews, 2018, p.18, "Boxer’s The Christian Century in Japan and Elison’s Deus Destroyed are the most accessible and most widely referenced English language histories."
Deus Destroyed. The Image of Christianity in Early Modern Japan. By George Elison. Harvard University Press, C. R. Boxer, Monumenta Nipponica , Autumn, 1974, Vol. 29, No. 3 (Autumn, 1974), pp. 342-345, "Deus Destroyed is not the last word on the so-called 'Christian Century'. But it is essential reading for any serious student of the early Tokugawa period, and it forms a major contribution to the history of the confrontation between East and West."
George Elison, Deus Destroyed, The Image of Christianity in Early Modern Japan, Harvard University Press, 1973, p. 208. "Inoue chikugo was intellectual in the same sense as was Adolf Eichmann. His diabolism was that of farceur drawn to the query of cadavers. His method was quiet successful. What is more, it strikes one as quiet modern...Ferreira only turned apostate only after bearing five hours the fiendish torture of anatsurushi, suspension in the pit."
José Miguel Pinto dos Santos, THE “KURODA PLOT” AND THE LEGACY OF JESUIT SCIENTIFIC INFLUENCE IN SEVENTEENTH CENTURY JAPAN, Bulletin of Portuguese /Japanese Studies, 2005 june-december, número 10-11 Universidade Nova de Lisboa Lisboa, Portugal, p. 134
Conquering Demonns, By Jan C. Leuchtenberger, Peter Nosco, Monumenta Nipponica, Vol. 69, No. 2 (2014), pp. 275-277, "More recent scholarship in English has challenged this narrative, though often indirectly, by focusing on anti-Christian rhetoric of the early seventeenth century. Building on the work of George Elisons Deus Destroyed (Harvard University Press, 1973), both Nam-lin Hur s Death and Social Order in Tokugawa Japan (Harvard University Asia Center, 2007) and Kiri Paramores Ideology and Christianity in Japan (Abingdon, Oxon: Routledge, 2009) demonstrate how anti-Christian rhetoric contributed in various ways to the formation and subsequent character of the early modern Japanese state. But left unaddressed in this scholarship has been the intriguing question of whether what Charles Boxer and others have styled "Japan's Christian Century" survived in the popular imagination of subsequent centuries, and if so, in what manner."
Jan C. Leuchtenberger: Conquering Demons: The “Kirishitan”, Japan, and the World in Early Modern Japanese Literature. (Michigan Monograph Series in Japanese Studies, 75.), 2013. DOI: https://doi.org/10.3998/mpub.9340271, p. 4
Jan C. Leuchtenberger: Conquering Demons: The “Kirishitan”, Japan, and the World in Early Modern Japanese Literature. (Michigan Monograph Series in Japanese Studies, 75.), 2013. DOI: https://doi.org/10.3998/mpub.9340271, p. 2, "...the figure of the Kirishitan lived on for more than two centuries in pseudohistorical narratives that continually replayed his abjection and expulsion""
Jan C. Leuchtenberger: Conquering Demons: The “Kirishitan”, Japan, and the World in Early Modern Japanese Literature. (Michigan Monograph Series in Japanese Studies, 75.), 2013. DOI: https://doi.org/10.3998/mpub.9340271, p. 91
Jan C. Leuchtenberger: Conquering Demons: The “Kirishitan”, Japan, and the World in Early Modern Japanese Literature. (Michigan Monograph Series in Japanese Studies, 75.), 2013. DOI: https://doi.org/10.3998/mpub.9340271, p. 24
Jan C. Leuchtenberger: Conquering Demons: The “Kirishitan”, Japan, and the World in Early Modern Japanese Literature. (Michigan Monograph Series in Japanese Studies, 75.), 2013. DOI: https://doi.org/10.3998/mpub.9340271, p. 31
Holy Ghosts: The Christian Century in Modern Japanese Fiction by Rebecca Suter, Nanyan Guo, The Journal of Japanese Studies, Vol. 43, No. 2 (SUMMER 2017), The Society for Japanese Studies, pp. 451-455,"...in my view, however, as the so-called Nihonjinron is more associated with a narcissistic self-image of uniqueness and superiority than with fear of the foreign."
Rebecca Suter, Holy Ghosts: The Christian Century in Modern Japanese Fiction Honolulu: University of Hawai‘i Press, 2015. ISBN 978-0-8248-4001-3, p.171
Rebecca Suter, Holy Ghosts: The Christian Century in Modern Japanese Fiction Honolulu: University of Hawai‘i Press, 2015. ISBN 978-0-8248-4001-3, p.108
Rebecca Suter, Holy Ghosts: The Christian Century in Modern Japanese Fiction Honolulu: University of Hawai‘i Press, 2015. ISBN 978-0-8248-4001-3, p.109
The Representation of Japanese Politics in Manga, Routledge/Asian Studies Association of Australia (ASAA) East Asian Series, Edited by Morris Low, Editorial Board: Geremie Barmé, Australian National University, Colin Mackerras, Griffith University, Vera Mackie, University of Wollongong and Sonia Ryang, University of Iowa., pp. 17, 86-100
The Representation of Japanese Politics in Manga, Routledge/Asian Studies Association of Australia (ASAA) East Asian Series, Edited by Morris Low, Editorial Board: Geremie Barmé, Australian National University, Colin Mackerras, Griffith University, Vera Mackie, University of Wollongong and Sonia Ryang, University of Iowa., p. 100, "Roemer discusses the difficulty in pinpointing a precise number of Christians in Japan, but all methods agree that they represent an extreme minority; see Michael Roemer, “Religious Affiliation in Contemporary Japan: Untangling the Enigma,” Review of Religious Research 50(1) (2009): 298–320"
- 洋書
- Elison, George (1973) (英語). Deus Destroyed, The Image of Christianity in Early Modern Japan. Harvard University Press
- dos Santos, José Miguel Pinto (2005 June–December). “THE “KURODA PLOT” AND THE LEGACY OF JESUIT SCIENTIFIC INFLUENCE IN SEVENTEENTH CENTURY JAPAN” (英語). Bulletin of Portuguese /Japanese Studies (ポルトガル、リスボン: Universidade Nova de Lisboa(英語)) (10-11).
- C. Leuchtenberger, Jan (2013) (英語). Conquering Demons: The “Kirishitan”, Japan, and the World in Early Modern Japanese Literature. University of Michigan Center For Japanese Studies
- C. Leuchtenberger, Jan (2014). “The Kirishitan Expulsion as Ritual Performance in Early-Modern Japanese Texts” (英語). Proceedings of the Association for Japanese Literary Studies (Brandeis University) (15-3-10).
- Suter, Rebecca (2015) (英語). Holy Ghosts: The Christian Century in Modern Japanese Fiction. University of Hawaii Press
- Low, Morris, ed (2020) (英語). The Representation of Japanese Politics in Manga. Routledge/Asian Studies Association of Australia (ASAA) East Asian Series
- Williams, Mark (2015). “Jan C. Leuchtenberger: Conquering Demons: The “Kirishitan”, Japan, and the World in Early Modern Japanese Literature” (英語). Bulletin of the School of Oriental and African Studies (Cambridge University Press) (78-1).
- A. Métraux, Daniel (2017). “Holy Ghosts: The Christian Century in Modern Japanese Fiction by Rebecca Suter” (英語). Asian Ethnology (Nanzan University) (76-1).