鶴舞藩
ウィキペディアから
ウィキペディアから
鶴舞藩(つるまいはん)は、明治維新期の短期間、上総国に存在した藩。藩庁は市原郡石川村(現在の千葉県市原市鶴舞)の鶴舞陣屋(鶴舞城)[1]。1868年に遠江浜松藩の井上家が6万石余で移封され、1871年の廃藩置県まで存続した。徳川宗家の静岡移転にともなって駿遠から房総に移された7藩[注釈 1]の中では最大の石高を有する藩である。
慶応4年/明治元年(1868年)5月、徳川宗家当主徳川家達は新政府から駿府藩主として認められ、70万石の領主として駿河・遠江に入ることとなった。これにより既存の駿河・遠江の大名は房総に移されることとなった。遠江浜松藩は6万石で、移転対象となった中で最大の石高を有する藩であり、藩主の井上正直は幕末期に老中・外国御用取扱を歴任した人物であった。
9月21日、浜松藩主井上正直に、代地として上総国市原郡・埴生郡・長柄郡のうち6万2000石余が与えられることが沙汰された[2]。浜松藩内には移封に対する不満もあり、208か村領民総代として3人の大庄屋が「永城ノ御処置」を太政官に嘆願する事態も発生した[2][3][注釈 3]。なお、移転先となる上総国の村でも、11月に房総知県事(安房上総知県事)役所に対して領主支配に戻さないよう嘆願が出されている[6]。
旧浜松藩領の徳川家への引き渡しは、5月に発生した天竜川決壊に対する普請[7][2]や、明治天皇の東幸[2]によって延期された。12月15日になって中泉代官大竹庫三郎への引き渡しが行われている[4]。
明けて明治2年(1869年)、荷物は天竜川河口部の掛塚湊(現在の磐田市掛塚地区)から船便で送られた[4]。移住者は士族219戸1188人、卒族552戸2136人という[4]。藩主井上正直は1月27日に浜松から出発、2月11日に新領地に到着[4]。埴生郡長南宿(矢貫村。現在の長生郡長南町長南)に入り[4]、今関家に居を構えて「仮本営」とし[8][9]、長福寿寺を仮の藩庁とした[10][9]。房総知県事柴山文平から引き渡された領地は[11][6]、上記3郡に山辺郡を加えた4郡中で6万2000石余であった[4][11](仮藩庁は長福寿寺に置かれたあと、房総知県事が県庁として使用していた浄徳寺に移ったともいう[9])。
長南宿は房総中往還(大多喜往還)の宿場で、江戸時代には在郷町として栄えた町である。当初は長南に藩庁を建設する計画もあったというが[9][注釈 4]、庁舎や家臣の住居を配置するのは手狭であったとされる[9][10]。このため市原郡内田郷石川村地内の桐木原[注釈 5]と呼ばれる荒蕪地の開拓に着手し[10][4](明治2年2月12日付で桐木原への庁舎造営願いが聴許されている[10])、版籍奉還後の明治3年(1870年)4月に藩庁・知事邸(「鶴舞御本営」)や藩士居宅が完成[10]。浜松にあった藩校「克明館」を移転した[13]。「鶴舞」という地名は、鶴が翼を広げたような台地の地形から命名されたとも[14][10]、もともとあった「鶴舞谷」という谷の名を採って桐木台全体を「鶴舞」(鶴舞台)と命名したともいう[15]。
鶴舞城下町の新設や道路整備などの大土木工事が興されたため、領民の夫役などの負担は大きかったとされる[16][17]。一方、この地域の多くは江戸時代には旗本知行地であり、産業開発や土木事業は村方に放任されていたため、藩がこれらの事業を意欲的に行ったことには肯定的評価がある[17][注釈 6]。鶴舞藩は短い統治期間中、博奕や奢侈や無断集会の禁止など多くの布達を出すとともに、村々の識見・人格の優れた者を「敷教小助」という役職に任命し、統治の安定を図った[18]。産業振興策としては新田畑の開墾のほか、養豚・養蚕の普及を図ったことが着目される[13]。
明治4年(1871年)に廃藩置県によって鶴舞県となる。7月14日、井上正直は藩知事を罷免されて東京に去った[13]。同年末には第一次府県統合によって木更津県の一部となった。
浜松出身の国学者村尾元融(1802年 - 1852年)の遺稿『続日本紀考証』全12巻の出版を井上正直が支援し、明治3年(1870年)に鶴舞で出版している[19]。
浜松藩の開明的改革を唱え[20]、佐幕派と見られて[21]閉門処分を受けた岡村義理(黙之助)は、国替えの際に赦免されたが鶴舞に同行せず、浜松で生涯を終えた[20]。義理の長男で飯島家を継いだ飯島魁は理学博士・動物学者となり[20]、義理の二男・岡村義昌の子からは岡村輝彦・岡村竜彦の兄弟が出た[20][注釈 7]。岡村輝彦は鶴舞藩貢進生として大学南校に学び、のちに法律家となって英吉利法律学校(中央大学の前身)設立者の一人となった[20]。
「日本点字の父」と呼ばれる石川倉次、耳鼻咽喉科学を日本にもたらしたとされる賀古鶴所、明治期の性科学に大きな影響を及ぼした『造化機論』翻訳者である千葉繁(千葉欽哉)[22]も、浜松から鶴舞に移った藩士やその家族であった。
なお、いずれも相給が存在するため、村数の合計は一致しない。
藩庁は陣屋であったが、井上家は城持大名であったために「鶴舞城」と公称した[1]。現代の鶴舞は「日本最後の城下町」と称している[23]。
藩庁跡地には小学校(現在の市原市立鶴舞小学校)が建てられた[24]。藩庁跡には鶴舞城本丸跡の碑や、井上正直の像[23]が立てられているほか、周辺には石川倉次の像、伏谷如水と清水次郎長の記念碑[注釈 8]など藩ゆかりの記念物がある。
鶴舞は「本格的な町作りが行われた」という評もあり[25]、1889年(明治22年)の『上総国町村誌』には「村は市街たり」と記されている[24]。『上総国町村誌』によれば人口1732人(1886年(明治19年)時点の調査という[26])を数え、市原郡役場鶴舞出張所や千葉警察鶴舞分署[注釈 9]があった[24]。1889年(明治22年)の町村制施行に際し周辺の村とともに鶴舞村を発足させ、1891年(明治24年)1月には鶴舞町となった。郡内では郡庁所在地の八幡町に次いで2番目に町制をおこなった町である。鶴舞町は昭和の大合併で南総町となり、ついで市原市に編入された。
Seamless Wikipedia browsing. On steroids.
Every time you click a link to Wikipedia, Wiktionary or Wikiquote in your browser's search results, it will show the modern Wikiwand interface.
Wikiwand extension is a five stars, simple, with minimum permission required to keep your browsing private, safe and transparent.