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信濃国にあった藩 ウィキペディアから
慶長8年(1603年)、松平忠輝が北信濃4郡を支配したとき、その付属大名である皆川広照が4万石で飯山に入ったことが、飯山藩の始まりである。しかし慶長14年(1609年)に広照は忠輝の素行不良を訴えたために徳川家康の怒りを買い、改易されてしまった。翌年、越後の堀家が改易されると、堀一族であった堀直寄が飯山に入る。直寄は千曲川の治水工事や新田開発を積極的に推し進めて藩の支配体制を固めようとしたが、元和2年(1616年)に直寄は越後長岡藩へ移封となる。代わって近江国内より佐久間安政が3万石で入る。安政は織田信長の家臣で「鬼玄蕃」の異名を取った佐久間盛政の弟である。安政の後はその子・佐久間安長、そして安長の子・佐久間安次が継いだが、寛永15年(1638年)に安次が夭逝したため、佐久間氏は無嗣断絶で改易となった。
翌年、松平忠倶が遠江掛川藩から4万石で入る。忠倶・松平忠喬の二人は地方巧者の野田喜左衛門を登用して用水路開設や新田開発、税制の確立に努めて藩政を安定化させた。宝永3年(1706年)に松平氏は掛川に戻され、代わって播磨赤穂藩から永井直敬が3万3000石で入る。しかし直敬は5年後の正徳元年(1711年)に武蔵岩槻藩へ移封され、代わって摂津尼崎藩から青山幸秀(幸侶)が4万8000石で入る。しかしこれもわずか6年後の享保2年(1717年)に丹後宮津藩に移封された。代わって越後糸魚川藩より本多助芳が2万石で入る。この本多氏は、本多正信に近い系統である。
糸魚川1万石から1万石加増されて2万石になったが、しかしこれはあくまで表高であり、実高としては同地は相次ぐ千曲川の水害のために、糸魚川1万石[1]よりも収入が少なかった。助芳の頃の家老の本多弥五兵衛の工作などが幕府に認められたこともあり、享保9年(1724年)に替え地が用意され、石高も3万5000石となった。本多家は飯山藩領を城下・外様組・川辺組・山之内組に分けて支配した。
明治元年(1868年)の戊辰戦争では、藩主の本多助成は新政府への態度が曖昧であるとして叱責を受けている。越後高田藩方面から旧幕府軍の衝鋒隊が飯山藩領に侵入し、飯山を拠点化しようとした。この動きに対しても藩は当初は日和見的な態度を取っていたが、突然衝鋒隊に対して発砲し、城下は戦火の被害を受けている。その後北越戦争、会津戦争に参戦した。翌年、第9代藩主・本多助寵は版籍奉還により飯山藩知事となる。そして明治4年(1871年)の廃藩置県により、飯山藩は廃藩となって飯山県となり、同年末には長野県に編入された。
4万石(譜代)。慶長8年(1603年)2月6日-慶長14年(1609年)10月27日。
4万石(外様)。慶長15年(1610年)2月3日-元和2年(1616年)7月28日。
3万3000石(譜代)。宝永3年(1706年)1月28日-正徳元年(1711年)2月11日。
4万8000石(譜代)。正徳元年(1711年)2月11日-享保2年(1717年)2月11日。
2万石→3万5000石(譜代)。享保2年(1717年)2月11日-明治4年(1871年)7月15日。
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