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雲中郡(うんちゅう-ぐん)は、中国にかつて存在した郡。戦国時代から唐代にかけて、現在の内モンゴル自治区フフホト市一帯に設置された。
戦国時代に趙の武霊王(在位紀元前326年 - 紀元前298年)が林胡と楼煩を破って北に領土を広げ、雲中郡・雁門郡・代郡を置いたのが始まりである[1]。
秦のとき、雲中県に郡治が置かれた。
前漢のとき、雲中郡は北の匈奴と接する最前線であった。高祖(劉邦)の時代には、漢から匈奴に降った趙利・王黄がしばしば雁門・代・雲中を侵した[2]。文帝6年(前174年)には匈奴の3万騎が雲中に侵入した。文帝14年(紀元前166年)以降、連年の匈奴の侵攻により、雲中郡は殺害略奪で1万人以上の被害を出した[3]。後元4年(紀元前160年)頃にも匈奴の3万騎が侵入した[4]。
武帝が反撃に転じると、今度は漢の出撃拠点の一つになった。元光6年(前129年)の最初の大攻勢では、公孫賀が雲中郡から出撃した[5]。元朔2年(前127年)には、大将軍衛青が雲中から進発して戦果をあげた[6]。それからしばらく匈奴の侵入は他郡にそれたが、太初3年(前102年)には再び匈奴が雲中を侵した[7]。本始3年(前73年)、宣帝のもとでの攻勢で、雲中郡から前将軍の韓増が3万余騎を率いて出撃した[8]。
元封5年(前106年)に全国に州が置かれたとき、雲中郡は并州に属した。雲中・咸陽・陶林・楨陵・犢和・沙陵・原陽・沙南・北輿・武泉・陽寿の11県を管轄した。『漢書』によれば、前漢末に3万8303戸、17万3270人があった[9]。
王莽のとき、受降郡と改称された。後漢が建てられると、雲中郡の称にもどされた[10]。
後漢のとき、雲中郡は雲中・咸陽・箕陵・沙陵・沙南・北輿・武泉・原陽・定襄・成楽・武進の11県を管轄した[11]。
215年(建安20年)、曹操が雲中・定襄・五原・朔方の4郡を県と改め、4県を管轄する新興郡を立てた[12]。
晋の恵帝のとき、新興郡は晋昌郡と改称された。304年(永興元年)、劉淵が漢王を称して自立すると、并州全域を漢(前趙)が掌握した。劉曜が都を長安に移すと、平陽以東の地は石勒に掌握され、朔方に朔州が置かれた[13]。
北魏のとき、再び雲中郡が置かれた。朔州に属し、後に雲州に属して、延民・雲陽の2県を管轄した[14]。
621年(武徳4年)、唐が劉武周を平定した。623年(武徳6年)、雲内県恒安鎮に北恒州が置かれ、雲内県は雲中県と改められた。624年(武徳7年)、北恒州は廃止された。640年(貞観14年)、朔州の北の定襄城から雲州と定襄県がこの地に移転された。682年(永淳元年)、雲州は突厥に攻め落とされて廃止され、その地の民衆は朔州に移された。732年(開元20年)、再び雲州が置かれた。742年(天宝元年)、雲州は雲中郡と改称された。この雲中郡は現在の山西省大同市に相当する。758年(乾元元年)、雲中郡は雲州と改称され、雲中郡の呼称は姿を消した[15]。
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