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隼鷹型航空母艦(じゅんようがたこうくうぼかん)は、大日本帝国海軍の航空母艦の艦型。同型艦は「隼鷹」と「飛鷹」。
隼鷹型航空母艦 | |
---|---|
基本情報 | |
種別 | 航空母艦 |
運用者 | 大日本帝国海軍 |
同型艦 | 隼鷹・飛鷹 |
前級 | 大鳳型航空母艦 |
次級 | 大鷹型航空母艦 |
要目 (計画) | |
排水量 |
基準:24,140英トン[4] 公試:27,500トン[4] 満載:29,471トン[4] |
全長 | 219.32 m[4] |
水線長 | 約215.32 m[4] |
垂線間長 | 206.00 m[4] |
水線幅 | 26.70 m[4] |
深さ | 21.79 m[4](飛行甲板まで) |
吃水 |
公試平均 8.15 m[4] 満載平均 8.60 m[4] |
飛行甲板 |
210.30 m ✕ 27.30 m[4] エレベーター2基[5] |
ボイラー |
飛鷹:川崎ラモント式強制循環缶6基[6] 隼鷹:三菱式水管缶6基[6] 補助缶:円缶2基[7] |
主機 |
飛鷹:川崎式オールギヤードタービン2基[6] 隼鷹:三菱ツェリー式オールギヤードタービン2基[6] |
推進器 | 2軸[7] |
出力 | 56,250 hp[4] |
速力 | 25.5ノット[4] |
航続距離 | 計画 10,000カイリ / 18ノット[4][注釈 1] |
燃料 | 重油 4,100トン[4] |
乗員 | 計画乗員 1,187名[8] |
兵装 |
竣工時[9] 40口径 12.7 cm連装高角砲6基 25 mm 3連装機銃8基 |
装甲 |
計画[10] 機関室:舷側 20 + 25 mm DS鋼 弾火薬庫:甲板 25 mm DS鋼 後部舷側 25 mm DS鋼 軽質油タンク:甲板 25 mm DS鋼 |
搭載機 |
計画 (常用 + 補用)[11] |
搭載艇 | 12 m 内火艇2隻、12 m 内火ランチ2隻、8 m 内火ランチ1隻、9 m カッター2隻、6 m 通船1隻、13 m 特型運貨船2隻[13] |
日本海軍は、造船業界の不況対処および戦時の優秀船舶確保のために、一部の民間造船所および建造船舶に補助を与えていた。サンフランシスコ航路のために日本郵船が1938年(昭和13年)に計画、1939年(昭和14年)に起工した大型高速客船「橿原丸」と「出雲丸」は、商船としてはそれまでの日本船舶で最大で、建造にあたり大型優秀船建造助成施設を適用され、有事の際に航空母艦に改造できる設計をとることを条件として、日本海軍から建造費用の6割の補助を受けていた[14]。1940年に開催予定だった東京オリンピックのために建造され始めたとも言われるが、起工は1939年3月である。のち対米関係が悪化した1940年(昭和15年)に、両客船は、空母への改造が決定され、1941年(昭和16年)に、海軍が日本郵船より建造中の2隻を買収。「橿原丸」は「隼鷹」(じゅんよう)、「出雲丸」は「飛鷹」(ひよう)と新たに命名された。
当初、空母に改装した際には、九六式艦上戦闘機12機、九六式艦上攻撃機18機、九七式艦上攻撃機18機を搭載することが予定されていたが、1941年になると零式艦上戦闘機15機(補用3)、九九式艦上爆撃機20(補用2)、九七式艦上攻撃機18(甲板10機)、800 kg 爆弾54発、250 kg 爆弾198発、60 kg 爆弾348発、九一式改二魚雷27発搭載に変更となっている[14]。
原計画が最大24ノットの高速客船であったこともあり、空母改装後は25ノットを出すことができた。この規模の空母としては低速だが、竣工当時には作戦行動上十分な速度と見なされていた。ただし、大戦中期から登場し始めた大型、高速の新型機の運用にはやや困難が伴うものであった。艦載機用カタパルトを実用化できなかった日本海軍にとって大型高速化しつつあった艦載機(彗星、天山)の発艦問題、特に無風時は深刻であり[15]、1944年(昭和19年)8月以降、発艦に補助ロケットを用いたケースがある[15]。
艦橋は、当初の計画では、「龍驤」のように飛行甲板先端下部に設け、飛行甲板上には何も設けない予定であったが、設計中の正規空母「大鳳」が、従来の舷側から湾曲して出す煙突をやめ、飛行甲板上に設けた煙突と艦橋とを一体化する構造となることが決定したので、その事前試験の意味も含めて、欧米の空母では標準の、煙突と一体となったアイランドを日本空母として初めて採用している[16] 。ただし、排煙による気流の乱れが艦載機の着艦を妨げないよう、煙突上部を右外側へ26度傾斜させており、この点は英米空母と異なる。この斜め煙突と艦橋が一体となったアイランドは、のちに大和型戦艦から改造された空母「信濃」にも採用されている。「飛鷹」は竣工時から艦橋に二号一型電探(対空レーダー)を装備している[17]。格納庫は二層で、エレベーターは飛行甲板の前部と後部に一基ずつ設置されている。
太平洋戦争においては、「飛鷹」、「隼鷹」の両艦により第二航空戦隊を編成、ミッドウェー海戦以降の空母機動部隊を支える中核戦力として活躍した。大戦後半の搭載機は零戦21、彗星18(9機は飛行甲板繋止)、天山9の合計48機だったという[17]。これは、アメリカ海軍のヨークタウン級空母の搭載機の約半数で打撃力も半分であった。
機関に日本海軍としてはトップクラスの性能のボイラーを採用した。隼鷹(橿原丸)の三菱水管缶は 420℃、飛鷹の川崎ラモント缶は 420℃、蒸気圧はそれぞれ 42気圧・40気圧で、駆逐艦島風の機関を上回り、アメリカ海軍のエセックス級空母に匹敵するスペックであった[18]。一方で、下部格納庫は缶室の真上にあって温度上昇に悩まされ、すのこを敷きつめて解決を図っている[14]。2軸推進であったが、スクリューの直径は日本海軍最大の直径5.5 mであった[18]。「飛鷹」は1942年(昭和17年)10月20日に機関故障を起こし、日本海軍は南太平洋海戦や第三次ソロモン海戦を前に貴重な航空戦力の一角を失っている[19]。
本型は商船改造空母ではあったが、当初から空母への改造が念頭に置かれていたために、装備された装甲は「蒼龍」に準する内容(水中防御の装甲は劣る)となっており、商船改造空母としては世界的に見ても異例の防御力を持っていた。弾薬庫甲板、後部舷側、ガソリンタンク甲板が25 mm DS鋼板、機関室舷側のみ20 mm+25 mm DS鋼板で構成されている[14]。機関部分も2重底とされていた[18]。ミッドウェー海戦に連動したアリューシャン作戦直前、佐伯湾に停泊していた「隼鷹」に転勤した山川兵曹によれば、「変てこな煙突」の空母の艦首に、乗っていた内火艇が衝突した。すると「隼鷹」の外舷が凹んでおり、同乗者と共に不安を抱いている[20]。また珊瑚海海戦で損傷した空母「翔鶴」から「隼鷹」に転勤した河野茂(三等飛行兵曹)は、「いままでに乗ったどの艦よりもゆったりして、優しい感じだった」と述べている[21]。
「飛鷹」副長によれば、燃料満載・燃料未載の場合、艦橋が右舷にあるため右舷に7度傾斜した[22]。1943年末に「飛鷹」では副長の主張により、左舷空所にバラストをつめて満載時傾斜が右3度に減っている[22]。また軍艦のように区画が細分化されておらず、被害を受けた際に区画的に防御を行う能力には劣っていた[23]。
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