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近藤 用可(こんどう もちよし[1])は、江戸時代初期の大身旗本。近藤秀用の次男で、父より5000石を分知された。「五近藤家」の一つ・気賀近藤家の祖。
天正10年(1582年)[注釈 1]、近藤秀用の次男として生まれる。当初は結城秀康・松平忠直父子に仕えた[1]。
慶長20年/元和元年(1615年)の大坂の陣に際し、父・秀用(当時は上野青柳藩主1万5000石、相模小田原城番)の要請によって幕府直臣(旗本)として召し出されることとなり、浜松で徳川秀忠に拝謁した[1]。大坂夏の陣には父とともに従軍し、5月7日の天王寺口の戦いで首級2つを挙げた[1]。戦後[注釈 2]、父の秀用より5000石余を分知され[1][4][5]、父に代わって鉄炮足軽50人を預けられた[1][4]。
元和5年(1619年)、秀用は1万石の領地を「旧領」である遠江国井伊谷周辺(遠江国引佐・敷知・豊田・麁玉・長上の5郡内)に移されるが[4](井伊谷藩参照)、このとき用可も知行地を同地域(遠江国引佐・長上・麁玉・敷知の4郡内)に移された[1]。
元和8年(1622年)、上使として越前国に赴いた[1]。これは、用可の旧主でもあった北荘藩主・松平忠直の病気を幕命によって問うための任務である[6]。用可は越前からの帰路、相模国大磯において落馬し、2月10日に没した[1][7]。享年41[1]。江戸・神田の霊山寺に葬られたが[1]、のちに霊山寺が本所に移転した際に改葬された[1]。
家督は、嫡出の二男・近藤用治が継いだ。寛永元年(1624年)、用治は庶兄・近藤用行(用可の庶長子。大谷近藤家初代)に分知を行い[8]、この時点で用治が3000石、用行が2000石を領することとなった。のちに用治は引佐郡気賀(現在の浜松市浜名区細江町気賀)に陣屋を置いたため[8][9]、用可から用治に継がれた家は「気賀近藤家」と呼ばれる。
『寛政譜』によれば子女は以下の通り[3]。子の続柄の後に記した ( ) 内の数字は『寛政譜』での掲載順。
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