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日本の近世中期から明治期まで存在した上層農民 ウィキペディアから
豪農(ごうのう)とは、多くの土地を所有し、ある程度の権勢をも備えた、富裕農家のこと[1]。世界史用語[2] や一般用語としても用いられるが、狭義および本義では、日本史において近世中期から明治期まで存在した上層農民の一形態であり、江戸時代後期は18世紀半ば以降の、特産物生産地帯の形成あるいは小商品生産の発展に伴って成長した村方地主(むらかたじぬし)を指す。
ここでは、狭義および本義である、日本史上の豪農について解説する。
豪農の系譜には、それまでの名田地主・質地地主から転化した者、商業活動や小商品生産によって成長した者の2つがあった。前者は従来の村方地主として近世前期から村役人を務めた者が多く、後者は18世紀半ばの村方騒動によって村方地主の地位を新たに獲得した者が多い。苗字帯刀を許された者も存在した。
成立した豪農は以下のように多様な側面を持つ。
豪農は18世紀半ばに成立した後、上記のうち、地主・商人・高利貸しの側面を伸長させ、成長していく。豪農は、幕藩領主と結んで殖産興業政策を担ったり、都市の商人と結んで商品集荷システムに参加した。各地において小商品生産を発展させる役割を果たしたのである。御用聞きを請け負った豪農は、城や大名屋敷での飼葉の調達、屎尿の汲み取り、大名庭園の清掃などを請け負い、必要に応じて人足を雇い従事させた。
しかし、天保期(1830-1843年)に至ると、幕藩制的な市場構造の特質に規定され、豪農の商人および小商品生産者としての側面の成長は頭打ちとなる。
全国各地の小商品生産の発展や特産物生産の隆盛は、肥料と労賃の高騰を招いた。その結果として、生産者は商品価格に経費(肥料代・労賃など)上昇分を上乗せしなければならない。しかし、全国の主要な都市は幕府が支配所(直轄領)としており、商品の販売も株仲間などを通じて幕府の強い統制下にあった。また、商品価格の上昇は、産地としての優位性を失うことにもつながった。そのために、豪農は経営の転換を迫られるのである。
豪農は高利貸しおよび地主としての側面に比重を移し、下層農家から収奪し田畑の兼併を進めるようになる。その結果として、豪農は農奴として生活を維持しなければならない従属身分の小作人を支配した。
大橋(1971年)[3] では以下のように階層区分している。
豪農をめぐる議論は、豪農論と呼ばれる。日本近世史の最も基本的な学説の一つである。
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