談山神社
奈良県桜井市にある神社 ウィキペディアから
奈良県桜井市にある神社 ウィキペディアから
談山神社(たんざんじんじゃ)は、奈良県桜井市多武峰(とうのみね)にある神社。旧社格は別格官幣社で、現在は神社本庁の別表神社。
鎌倉時代に成立した寺伝によると、藤原氏の祖である中臣鎌足の死後の天武天皇7年(678年)、長男で僧の定恵が唐からの帰国後に、父の墓を摂津国安威(大職冠神社=将軍山1号墳。参照:阿武山古墳)から大和国の当地に移し、その墓の上に十三重塔を造立したのが発祥であるとする。
天武天皇9年(680年)に講堂(現・神廟拝殿)が創建され、十三重塔を神廟として妙楽寺と号した。大宝元年(701年)、十三重塔の東に鎌足の木像を安置する祠堂(現・本殿)が建立され、聖霊院と号した。談山の名の由来は、中臣鎌足と中大兄皇子が、大化元年(645年)5月に大化の改新の談合をこの多武峰にて行い、後に「談い山(かたらいやま)」「談所ヶ森」と呼んだことによるとされる。後に本尊として講堂に阿弥陀三尊像(現・安倍文殊院釈迦三尊像)が安置された。
昌泰元年(898年)に初めて当社の裏山の御破裂山が鳴動する。以後、御破裂山は国に大きな災いが起こる際にその前兆として鳴動するようになり、慶長12年(1607年)までに計35回も鳴動したという。
延長4年(926年)、国内最古となる惣社を創建し、「談山権現」の勅号が下賜される。これにより、妙楽寺、聖霊院、惣社が神仏習合して一体化していった。
天暦10年(956年)、比叡山延暦寺の末寺となり、天禄元年(970年)には摂政藤原伊尹が三昧堂(現・権殿)を建立している。
平安時代には藤原高光が出家後に入山、増賀上人を招聘するなど、藤原氏の繁栄と共に発展を遂げたが、当社・妙楽寺は天台宗の寺院であり、藤原氏の氏寺である法相宗の興福寺、および藤原氏の氏神である春日大社との仲は良くなかった。永保元年(1081年)3月、興福寺に焼き討ちされる。天仁元年(1108年)9月には浄土院、食堂、経蔵、惣社、大温室、多宝塔、灌頂堂、五大堂、浄土堂に加え、近くの鹿路の村々が悉く興福寺の僧兵に焼かれた。承安3年(1173年)6月には十三重塔を含む境内全域が興福寺の焼き討ちで焼失してしまった。しかし、十三重塔は文治元年(1185年)に再建されている。平安時代末期には妙楽寺は青蓮院の末寺となり、また、妙楽寺の南方に冬野城が築かれた。このように、興福寺とは主に領地を巡っての争いの上に抗争となり、最後は焼き討ちをされるという事件が多数起きている。
承元2年(1208年)2月には金峰山寺の衆徒による焼き討ちを受けた。安貞元年(1227年)8月、そして安貞2年(1228年)4月にも興福寺の焼き討ちを受けている。また、大和国の国衆も十市氏、越智氏は妙楽寺側に付き、楢原氏、布施氏、北隅氏らは興福寺側に付いて合戦を繰り返していた。
鎌倉時代には曹洞宗本山永平寺第2世孤雲懐奘大和尚が妙楽寺に参学している。
永享7年(1435年)には南朝の遺臣に占領されて反室町幕府の拠点にされてしまう。これにより、永享9年(1437年)から始まった越智、箸尾両氏の幕府軍への抵抗戦・大和永享の乱に巻き込まれてしまい、翌永享10年(1438年)8月、幕府軍に焼かれて全山焼失した。しかし、大織冠尊像(藤原鎌足像)は事前に橘寺に避難させていたので焼失は免れ、嘉吉元年(1441年)9月に帰座している。
永正3年(1506年)9月、赤沢朝経とそれに抵抗する十市氏、越智氏、箸尾氏等の大和国人一揆の合戦に巻き込まれ、赤沢軍に焼き討ちされた。その後、建物の再建が進められ享禄5年(1532年)には十三重塔(重要文化財)も再建されている。
永禄2年(1559年)からの松永久秀に対する十市氏の戦い等の「多武峰合戦」と称する3つの抵抗戦が多武峰・冬野城一帯で起きるなど、ここを舞台とする戦乱は絶えることがなかった。
天正13年(1585年)、豊臣秀吉により郡山城下に寺を移すように厳命され、翌天正14年(1586年)に妙楽寺は郡山に寺基を移し、新多武峰、新峰、新寺と呼ばれるようになった。しかし、一方で大織冠尊像はそのまま多武峰に残り、こちらは本峰、本寺、古寺と呼ばれるようになって妙楽寺は分裂してしまった。
だが、豊臣秀長の体調が悪くなっていった為に、その回復祈願の事もあって天正16年(1588年)4月、大織冠尊像も郡山に遷座させられた。しかし、秀長の体調の悪化により、逆に天正18年(1590年)12月、郡山にあった妙楽寺は帰山を許されて全山多武峰に帰っていった。なお、翌天正19年(1591年)1月に秀長は亡くなった。
江戸時代に入ると徳川家康の命により、江戸幕府から3,000石余の朱印領が認められた。
元和5年(1619年)に本殿を造替する。寛文8年(1668年)に本殿を造替し、前の本殿は移築され東殿(現・恋神社)とされた。享保19年(1734年)に本殿を造替し、前の本殿は移築され惣社とされた。寛政8年(1796年)に本殿を造替し、前の本殿は移築され百済寺本堂となった。嘉永3年(1850年)に本殿を造替し、前の本殿は移築され東大寺東南院持仏堂となった。
幕末には子院33坊、雑役等を担う承仕坊6坊があり、寺領も6,000石あった[1]。
1869年(明治2年)2月に神仏分離令により僧達は還俗して神職となり、廃仏毀釈が行われて妙楽寺は廃され、数多くの子院が廃絶した。続いて6月30日には談山神社と改称している。
神社とはなったが、当社は一般的に寺院が神社に転向する際に行われた仏堂の破壊行為は行われず、十三重塔をはじめとする妙楽寺の仏堂をそのまま使用することとした。そのため、現在もかつての神仏習合の雰囲気を良く残している。
1874年(明治7年)12月22日に近代社格制度のもと別格官幣社に列せられた。
本尊であった阿弥陀三尊像は1883年(明治16年)に安倍文殊院に移されてなぜか釈迦三尊像とされてしまった。当社には今も残る唯一の仏像として如意輪観音像が所蔵されている(通常は非公開の秘仏)[2]。
摂社
末社
建造物
美術工芸品
典拠:2000年(平成12年)までに指定の国宝・重要文化財の名称は、『国宝・重要文化財大全 別巻』(所有者別総合目録・名称総索引・統計資料)(毎日新聞社、2000)による。
Seamless Wikipedia browsing. On steroids.
Every time you click a link to Wikipedia, Wiktionary or Wikiquote in your browser's search results, it will show the modern Wikiwand interface.
Wikiwand extension is a five stars, simple, with minimum permission required to keep your browsing private, safe and transparent.