蒲生町 (鹿児島県)
日本の鹿児島県姶良郡にあった町 ウィキペディアから
日本の鹿児島県姶良郡にあった町 ウィキペディアから
蒲生町(かもうちょう)は、鹿児島県の中央部にあった町である。姶良郡に属していた。
2010年3月23日付けで、同じ姶良郡の姶良町・加治木町と合併して姶良市が発足した。滋賀県にあった蒲生町は「がもう」と濁って読むが、こちらは「かもう」と濁らずに読む。
鹿児島県の中央部、鹿児島市から真北へ約15 kmの場所に位置する内陸の町である。東西約11.7 km、南北約15.0 kmで西側に尖った三角形状の形をしている。
北西側の薩摩川内市との境界には400 mから500 m程度の山が並び、川内川と別府川の分水界をなしている。一部薩摩川内市側から流れ込む小さな河川もあるが、おおむねこの薩摩川内市との境界付近の山を源流とした川が蒲生町内を流れて次第に合流し、別府川を形成して姶良町側へ流れていき、姶良町と加治木町の境界で鹿児島湾(錦江湾)に注いでいる。町の北部・西部は山間地帯となっており、大半が森林地帯であり人工林が多く、谷間や盆地となっている場所に集落と田畑が形成されている。南東部の姶良町との境界付近は別府川によって形成された標高の低い平地になっており、ここに蒲生町の中心市街地が形成されている。
畳の原料として使用した蒲草が繁茂していたことから「蒲生」という地名が付いたとされている。
蒲生という地名は、平安時代初期の日本後紀に初めて出てくる。駅伝制において、大隅国蒲生駅と薩摩国田尻駅の間が長すぎるために、804年(延暦23年)に薩摩国櫟野村に新たな駅を設けたという記述で、この蒲生駅は現在の下久徳付近にあったものとされている。大隅国の国府があった国分付近と薩摩国の国府があった川内付近を結ぶ交通路上の拠点であったと見られている。
宇佐八幡宮の留守職であった藤原教清が宇佐八幡大宮司の娘との間に儲けた息子藤原舜清は、1120年(保安元年)に大隅国の垂水へ下ってきて、続いて1123年(保安4年)正月に蒲生院に入ってこの地域の総領職となった。そして宇佐八幡宮を勧請して蒲生八幡神社を創建した。以後、舜清とその子孫は蒲生氏と称して、蒲生城を中心としてこの地域を支配するようになった。
以後蒲生氏は蒲生を所領とする豪族であった。しかし1459年(長禄3年)になり、隣接する帖佐を支配していた島津季久は蒲生を攻撃し、まだ若かった蒲生氏15代当主蒲生宣清はこれに対抗することができずに、島津忠国の指示を受けて給黎に移ることになった。その後は島津季久の子島津忠廉が蒲生を支配していた。蒲生宣清は終始島津忠昌の配下として行動し、島津季久が島津忠昌と対立するようになると季久方の揖宿城を攻撃するなどし、ついに1495年(明応4年)閏2月に旧領の蒲生を与えられて復帰することができた。
戦国時代後期となると、蒲生氏は島津氏と対立するようになった。1554年(天文23年)、加治木を支配していた肝付氏は島津氏の配下となり、肝付氏と蒲生氏の対立から、祁答院良重、入来重嗣、蒲生範清が島津氏に対して背いた。蒲生氏は援軍の菱刈氏・渋谷氏などとともに加治木の肝付氏を攻撃し、これに対して島津貴久が救援を送った。蒲生から加治木に掛けての各地で戦いが繰り広げられた後、9月になって岩剣城の戦いが起こった。島津氏が日本で初めて鉄砲を実戦で使用したと言われる(異説もある)。堅城であるため苦戦したが、10月3日になり陥落した。
さらに1555年(天文24年)肝付氏と共に帖佐平山城の祁答院良重を攻撃して4月2日祁答院へ敗走させた。その後鎌田政年が帖佐地頭として配され、同年7月27日に祁答院氏が帖佐を奪還しようとして来襲した際には援軍を得ながら祁答院氏を大破した。1556年(弘治2年)には松坂城を3月と10月の2回に渡る攻撃で陥落させて、祁答院氏からの蒲生氏への救援をほぼ絶った。そして蒲生氏の援軍に来ていた菱刈氏を1557年(弘治3年)2月から3月に掛けての戦闘で撃破し、菱刈陣を陥落させたことで蒲生城の包囲を完成させた。援護の得られなくなった蒲生範清は、同年4月20日ついに降伏し、祁答院方面へ退去していった。こうして蒲生氏は平安以来の領地を失い、この地域の島津氏の支配がほぼ確立した。
江戸時代の蒲生は、現在の町役場のあるあたりに地頭仮屋が置かれて、周辺に武家屋敷が並ぶようになった。またこれより東側には野町と呼ばれる商業地区が発達した。蒲生は、明治初期の調査によれば士族が人口の66%をも占めている武士の率の高い地区であり、精兵として知られていた。江戸初期には、林業の振興や和紙の生産の開始など、殖産興業政策も進められた。
1739年(元文4年)には、重富郷を帖佐郷から分割した関係で、それまで蒲生郷に含まれていた木津志村が山田郷に移された。このときの蒲生郷が、後の蒲生町の領域にほぼ相当するようになった。
1889年(明治23年)4月1日に町村制施行により、姶良郡上久徳村・下久徳村・米丸村・北村・久末村・西浦村・白男村・漆村が合併し、蒲生村が発足した。さらに1928年(昭和3年)11月1日に町制を施行し蒲生町となった。
1955年(昭和30年)1月1日には、山田村木津志の一部を編入し、残りの山田村は帖佐町・重富村と合併して姶良町となった。
2010年(平成22年)3月23日には、姶良町・加治木町と合併して姶良市が発足。
町制施行
江戸時代初期に、宮之城の領主で薩摩藩の家老をしていた島津久通が殖産興業政策の一環として、蒲生の地質が杉林の育成に適していることや、川を利用した水運の便がよいことなどから、造林事業を行った。これにより、蒲生メアサ杉を中心とする林業が発達した。また武家の副業として製紙業を奨励したことから、蒲生和紙の生産が盛んとなった。
1950年(昭和25年)10月1日時点で15,887人いた人口は年々減少しており、過疎の問題が起きている。
過去の人口は以下の通り(出典は国勢調査)
年 | 人口 |
---|---|
1980年 | 8,383人 |
1985年 | 8,288人 |
1990年 | 7,801人 |
1995年 | 7,533人 |
2000年 | 7,339人 |
2005年 | 7,261人 |
最寄り空港は鹿児島空港。
町内を国道・高速道路は通っていない。
主要地方道
Seamless Wikipedia browsing. On steroids.
Every time you click a link to Wikipedia, Wiktionary or Wikiquote in your browser's search results, it will show the modern Wikiwand interface.
Wikiwand extension is a five stars, simple, with minimum permission required to keep your browsing private, safe and transparent.