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この項目では、中華人民共和国河北省石家荘市正定県の臨済寺について説明しています。その他の臨済寺については「臨済寺」をご覧ください。 |
臨済寺(りんざいじ)は、中華人民共和国河北省石家荘市正定県に有る臨済宗の寺である。臨済義玄がここで臨済宗を開いた。
中国の南北朝時代の東魏の孝静帝の興和2年(540年)に建立された。[1]その旧址には「臨済院旧址紀念碑」が立っている。
唐
唐の時代、宣宗皇帝の大中8年(854年)に臨済義玄がこの寺に入った。そして禅宗のひとつ臨済宗を開くことになる。懿宗皇帝の咸通8年(867年)に禅師は入寂した。懿宗は慧照大師と諡し、「澄霊塔」という高さ30.47mの瑠璃瓦の端麗な青い九重の塔が建てられた。
元
元の時代、時の住持の海雲が重修を主催した。『河朔訪古記』によると、“臨済寺は真定府城中に在り、定遠門街、飛雲楼の東なり。その三門下には、唐の呉道子が画いた布袋和尚像及び揺鈴の普化真賛、東坡墨竹、緑筠軒詩等の石刻あり、極めて精細なり”とある。元の至大2年(1309年)、趙孟頫は勅によって「臨済正宗碑」を撰し、それは寺中に立てられた。
明
明の正徳16年(1521年)、再び伽藍の重修が行なわれた。当時の寺内の主要な建築物には、山門、大雄宝殿、澄霊塔と祖堂及び僧房が有る。同時に新たに石碑が立てられ、王餅が碑文を撰し、郭希愈が文字を書した。
清
清の雍正帝は、義玄に「真常恵幽禅師」の号を賜り寺を重修した。道光10年(1830年)、総兵の舒通阿が出資して再度重修し、また祖師殿を大雄宝殿の両側に移した。
民国
民国の日中戦争時期には、澄霊塔のほか、祖堂三間および東配殿三間があった。1947年に、この両殿が共に破壊され、僅かに澄霊塔を存するのみになった。
1949年以後
1983年に漢族地区仏教全国重点寺院に指定された。1984年には正式に仏教界の管理下に入り、仏教の布教伝道及び修道活動が開放された。
日中両国の臨済宗と黄檗宗は、共に臨済寺を奉じて祖庭とした。1979年5月、日本の臨済・黄檗二宗は、連合して日中友好臨黄協会を設立した。1980年より、每年代表団を派遣して訪中し、臨済禅師塔を朝拝し、併せて出資修築している。1985年には、日本の臨済・黄檗二宗の僧侶の出資援助及び、当地政府の出資により、澄霊塔を修築した。その後また、逐次、大雄宝殿、祖堂、寺舎などを修築している。
1986年5月19日には、寺内にて祖塔修復落成儀式と誦経の法会を挙行し、日中友好臨黄協会訪中団100人及び当地の仏教信徒が共同して参加した。
1988年5月15日、河北省仏教協会が寺内に設立され、浄慧法師が会長に任命された。
補注
『正定県志』:“臨済寺、東魏興和二年建、在城東南二里許臨済村。”
- 大雄宝殿
- 澄霊塔
- 山門殿
- 法乳堂
- 禅堂
- 蔵経楼
- 方丈室
- 滹沱河 - 寺名の由来。河の渡し(済)に臨む場所にあった臨済村に建立されたため名付けられた。
- 臨済義玄 - 臨済寺の住持であったことからその法脈を臨済宗と称する。