米津政敏
江戸時代後期の大名 ウィキペディアから
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米津 政敏(よねきつ まさとし)は、江戸時代後期の大名、および明治時代の華族、陸軍軍人。出羽国長瀞藩5代藩主。官位は従五位下・伊勢守。維新後は藩庁を移転し、上総国大網藩知事、さらに移転し常陸国龍ヶ崎藩知事となった。爵位は子爵。位階および勲等は正四位・勲五等。
嘉永4年(1851年)3月29日、長瀞藩4代藩主・米津政明の長男として誕生した。慶応元年(1865年)12月11日、父の隠居により家督を相続する。
慶応2年(1866年)12月18日、従五位下・伊勢守に叙任される。戊辰戦争では庄内藩側に与し、慶応4年(1868年)閏4月に天童藩に陣屋を占拠されている。明治2年(1869年)6月、版籍奉還により長瀞藩知事となる。同年11月、政庁を上総山辺郡大網村に、明治4年(1871年)2月にはさらに常陸河内郡龍ヶ崎村に移した。同年7月15日、廃藩置県により、知藩事を免官となる。
維新後は陸軍戸山学校を卒業し、明治10年(1877年)に陸軍少尉、のち中尉に昇進して近衛師団文庫主管などを務めた。明治17年(1884年)子爵[1]。明治22年(1889年)6月10日から[2]翌明治23年(1890年)7月25日まで[3]、梨本宮家の家令を務めた[4]。明治23年7月10日、貴族院議員に当選[5][6][7]して終生在任した[8]。
明治28年(1895年)10月30日、死去。享年45。
父母
妻
子女
家令
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