空虚な真
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数学および論理学において、空虚な真(くうきょなしん、英: vacuous truth)とは、前件が真にならないために真になる条件文や普遍命題(条件命題に変換できる普遍命題)のことである[1]。このような命題は実際に何も表現しないため、命題は空虚に真であると時々表現される[2]。例えば、命題「室内のすべての携帯電話は電源が切れている」は、室内に携帯電話がないとき真になる。この場合、命題「室内のすべての携帯電話は電源が入っている」も同様に真である。これら2つの論理積「室内のすべての携帯電話は電源が入っていて、かつ切れている」も、もし空虚な真でなければ矛盾しており偽であるだろうが、同様に真である。
より形式的に、相対的に well-defined な用法では、偽の前件を持つ条件命題(もしくは普遍条件命題)のことを指す[1][3][2][4]。そのような命題の例の一つは「東京がフランスにあるならば、エッフェル塔はボリビアにある」である。
このような命題は、前件が偽であるという事実によって、命題から後件の真理値を推論する必要がなくなるため、空虚に真であるとみなされる。本質的に、論理包含に基づく条件命題は、前件(例における「東京がフランスにある」)が偽であれば、帰結や後件(例における「エッフェル塔がボリビアにある」)の真理値によらず真になる。なぜならば論理包含がそのように定義されているからである。
日常会話に共通する例として、「地獄が凍りついたら」とか「豚が飛んだら」といった、ありえないことの慣用表現として使われる条件文が含まれる。こうした表現では、与えられた(不可能な)条件が満たされる前に話者が(ふつう偽か不合理な)各命題を受け入れるわけではない。
純粋数学においては、空虚に真な命題は一般にそれ自体が興味対象になるわけではないが、数学的帰納法の基本ケースとして頻繁に生じる[5]。この特徴は純粋数学だけでなく、古典論理を用いる他の分野にも関連する。
数学以外では、非形式的に空虚に真であると特徴づけられる命題は誤解を招く。そのような命題によって、実際には存在しない修飾された対象に関する主張が妥当になってしまう。例えば、最初からお皿に野菜がなかったとしても、子どもは親に対して正直に「野菜を全部食べた」と言うかもしれない。この場合、たとえ嘘でも親は実際に野菜を全部食べたと信じるだろう。加えて、空虚な真は、自信を持って何かを主張するために不合理な言い回しで口語的に用いられたり(例えば犬が赤かったことを強調するための「犬は赤かった、でなければ私は猿の叔父だ」)、疑い、皮肉、不信感、憤りの表現(例えば前に話した内容を否定するための「そう、私はイングランドの王だ」)に使われることがよくある。