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石原 謙(いしはら けん、1882年8月1日 - 1976年7月4日)は、日本のキリスト教史学者。
日本学士院会員。
東京市本郷区本郷4丁目39番地に本郷教会牧師石原量、母ちせの次男として生まれる。「少年の頃既に聖書を教えられ、中学四、五年の頃その研究に少なからず興味を覚えて、その頃受洗」(『石原謙著作全集』11巻214頁)したと、牧師である父の強い影響でキリスト教信仰を持ったことを記している[2]。洗礼は1900年(明治33年)1月7日、18歳の時数寄屋橋教会(現日本基督教団巣鴨教会)の田村直臣牧師から受けた[2]。
早稲田中学を経て、1901年(明治34年)7月一高に入学し、1903年に最初の論文「ナザレの聖者を論ず」を書いた[3]。1904年(明治37年)7月東京帝国大学文科大学史学科に入学、1905年(明治38年)哲学科に転じる。文科大学哲学科では石原の学部卒業間際から大学院生の時期、波多野精一が講師もしていたが、学内においてよりは富士見町教会[4]での波多野による日曜講演会において強い影響を受けた。1907年(明治40年)の大学卒業後、大学院に進む。在学中に1909年(明治42年)富士見町教会の会員の実業家渡辺荘[5]の長女貞と結婚[6]。
石原は結婚後富士見町教会に転入した[3]。 1918年東京大学講師として古代・中世哲学史を担当した[3]。ハイデルベルク大学でハンス・フォン・シューベルト教授から教会史を、マルチン・ディベリウス教授から神学を学んだ[3]。大学院に進むにあたり教父哲学を研究したいと申し出、教授会は専攻題目の改題を要求し、しかし1912年7月大学院に卒業論文「アレクサンドリアのクレメンスの哲学」を提出、これが認められて文学博士となったのは1921年(大正10年)のことであった。
同年4月文部省在外研究員としてドイツに留学。8月東京帝国大学助教授。10月ハイデルベルク大学に入学、翌年10月バーゼル大学に転じ、1923年(大正12年)帰任。
1924年(大正13年)、その3年前に辞職させられた兄、純と入れ替わるように東北帝国大学教授に就任。信仰活動にも積極的で、東北大学内に聖書研究会や東北大学基督教青年会を設立し[7]、1936年には私費を投じて東北大学基督教青年会館寮(現:東北大学YMCA渓水寮)を設立した[8]。
1940年(昭和15年)12月には東京女子大学学長に就任し、1948年(昭和23年)同辞任。1952年(昭和27年)4月に青山学院大学文学部教授、10月日本基督教学会理事長(初代)。1953年(昭和28年)中世哲学会委員長(初代)、のち会長。
石原は人間の罪の根源である原罪に関心を持ち、原罪はイエスのみが克服できたものであると理解した[9]。教会については、アウグスティヌスのいう「唯一の公同の」「使徒的」「神の聖なる霊の働く所」としての教会概念に異論を唱えないが、社会的存在としての教会は、完全で全く誤謬のないという意味での教会ではないと分析している[10]。また日本的精神風土とキリスト教の異質性を論じ、「日本の教会は日本という地域的風土を離れては成立し発展し得ない」(『石原謙著作全集』10巻379頁)と述べ、「日本にはキリスト教会」がない(『石原謙著作全集』月報1、2頁)とも発言している[11]。
1966年(昭和41年)宮中御講書始に「アウグスティヌスの平和思想」について進講。4月病気のために一切の公職を辞す。1973年(昭和48年)ハイデルベルク大学から名誉神学博士の学位授与。
哲学・倫理学・宗教学等を幅広く研究し、1962年(昭和37年)には文化功労者顕彰、1973年(昭和48年)には文化勲章受章。1976年(昭和51年)の没時には従三位と勲一等瑞宝章が追贈された。
東北帝大時代の1927年に、遠藤新の設計により建築した住居が仙台市青葉区に現存する(個人宅。非公開)[12]。1931年には同じく遠藤の設計で栃木県那須に別邸を建てている[13]。
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