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申 叔舟(シン・スクチュ、しん しゅくしゅう、永楽15年6月20日(1417年8月2日) - 成化11年6月21日(1475年7月23日))は、李氏朝鮮初期の政治家。字は泛翁。号は希賢堂あるいは保閑斎。諡号は文忠。本貫は高霊申氏。父は申檣。孫は申用漑。
1439年(世宗21年)に文科に合格して官吏となり、学問研究所兼政策諮問機関である集賢殿に登用される。日本語、中国語など他の国の言語も上手かったために外交官としても活躍し、1443年(世宗25年)には通信使の書状官として日本に赴いた。また、鄭麟趾(チョン・インジ、てい りんし)らと共にハングルの創製や『東国正韻』の編纂にも参加し、義理の祖父の尹会(ユン・フェ、いん かい)と共に、世宗の重用を受けた。
世宗の没後の1453年(端宗4年)、首陽大君李瑈(後の世祖)による権力奪取(癸酉靖難)に協力、都承旨(王の秘書室長)になる。世祖が即位すると大提学になった。1462年(世祖8年)には朝鮮王朝の最高官職である領議政となった。世祖は彼を、唐の太宗に仕えた名臣の魏徴になぞらえたという。
年若い睿宗が即位すると院相として承政院に入り、南怡の謀叛事件で政敵を排除。つづけて成宗に仕えた。成宗の命を受け、かつて室町幕府の足利義教将軍の没後に、日本を訪問した経験を基に『海東諸国紀』を著し、1471年(成宗2年)に刊行している。
※参考=朝鮮王朝実録
現在の韓国ではハングルを定義した「訓民正音」は世宗一人の著作物、との認識が有力であるが、同書の“後序”で鄭麟趾が名前を挙げている集賢殿の学士たち集団(申叔舟もその中に含まれている)の作業であるとの見方もある。「訓民正音」と対になっている「東国正韻」の序は申叔舟が書いており、作業の中心的人物であったことが窺える。 また1471年完成の「海東諸国紀」-日本国俗の説明のなかで「男女となく皆その国字を習う。国字はかたかなと号す」と説明している点が注目される。 彼は世祖のときに始まり成宗の代で完成した「経国大典」の編纂にもかかわっていた。彼は晩年に成宗に遺言を問われ「願わくば日本と失和してはなりません」と答えた[1]。
癸酉靖難は、端的には世宗の孫である端宗の王位を叔父の首陽大君(世祖)が簒奪したとされる事件である。世宗に重用された集賢殿の学士たちの中には端宗の復権を図って処刑されたものもあり、忠節がたたえられている。一方、彼らの同僚であった申叔舟は首陽大君(世祖)を支持して重用され、のちに領議政にまで登りつめた。申叔舟は変節漢と非難を浴びている。傷みやすい緑豆モヤシは、申叔舟にちなんで「スクチュナムル」と呼ばれている。
また、廃妃尹氏(第10代国王燕山君の生母)は従姪にあたる(彼女の母の申氏が自身の従妹)。
2024年7月3日、韓国の国家遺産庁は申叔舟の肖像画を国宝に指定する方針を発表した。韓国に現存する公式肖像画としては最古のものとみられている[2]。
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