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韓 明澮(ハン・ミョンフェ、かん めいかい、永楽13年10月25日(1415年11月26日) - 成化23年11月14日(1487年11月28日))は、李氏朝鮮前期の権臣。勲旧派の首領・外戚として朝廷の実権を掌握した。字は子濬、号は狎鴎亭・四友堂。諡は忠成。本貫は清州韓氏。
祖父は芸文館大提学の韓尚質。父は韓起。娘の2人は、睿宗の妃(章順王后)、成宗の妃(恭恵王后)となった。
友人である権擥を通じて首陽大君(後の世祖)の知遇を得、その権力奪取の計画に加担。1453年の癸酉靖難で活躍し、靖難功臣一等となる。1455年、世祖が王になると右承旨に進み、成三問ら死六臣による端宗復位運動を阻み、その誅殺に加わった。
その後も要職を歴任し、1462年の右議政、1463年の左議政を経て、1466年に領議政に昇進したが、病気のために退いた。1467年の李施愛の乱では、叛乱が疑われ、一時逮捕されている。世祖が没すると、その遺命により、若い睿宗を補佐するために、院相として再び政治に関与、南怡の謀叛事件などで政敵を排除しながら、1469年に領議政に復した。同年、睿宗が没すると、貞熹王后尹氏(世祖の妃)と結んで成宗を即位させ、自らは兵曹判書を兼ねた。1471年、領春秋館事となり、崔恒・申叔舟とともに『世祖実録』を完成させた。1487年に没し、宗廟に世祖の配享功臣として祀られた。享年73。
死後の1504年、燕山君による甲子士禍に際し、燕山君の母の尹妃の賜死に関与したとして、韓明澮の墓は暴かれ、遺骸は損壊された(剖棺斬屍)ものの、1506年9月に燕山君が失脚し、中宗即位直後に再び身分が回復した。
※参考:朝鮮王朝実録
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