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平安時代の作り物語 ウィキペディアから
『狭衣物語』(さごろもものがたり)とは、平安時代の作り物語のひとつ。全4巻。
この物語の作者を紫式部の娘大弐三位とする説もあったが、現在では六条斎院宣旨(禖子内親王家宣旨)源頼国女を作者とする説が圧倒的に有力である。成立時期は後冷泉朝の康平頃とも、後三条・白河朝の延久・承保頃ともいう。『無名草子』では「さごろもこそこそ、源氏につぎてはよ(世)をぼへはべれ」(天理図書館本)とあり、平安末期にはよく知られた作品であったが、「さしてそのふしと、とりたてゝ心にしむばかりのところなどは、いとみえず」など、批判されている。なお書名については、古くは単に『狭衣』(さごろも)と呼ばれていたようである。
『源氏物語』宇治十帖の薫大将に性格の酷似する主人公・狭衣の恋愛遍歴を描き、主題・構成には『源氏物語』の顕著な影響が見える。しかし「いずれの御時にか」で始まる『源氏物語』と違い、「少年の春は惜しめども留まらぬものなりければ、弥生の二十日余になりぬ」(『有朋堂文庫』)と始まる書き出しは、白楽天の漢詩や『古今集』の名歌を踏まえ、従妹源氏の宮への遂げられぬ恋に起因する狭衣の煩悶を描き、現実を意識したものとなっている。飛鳥井姫君の物語や狭衣の即位など、宿命観や幻想的描写が目立ち、主人公の優柔不断さや物語全体を覆う憂愁な雰囲気も『源氏』とだいぶ相違するものである。室町時代には奈良絵本『狭衣』としても改作された。また14世紀に制作された伝土佐光顕筆「狭衣物語絵巻」も残欠6段が現存する。建久3年(1192年)から翌4年ころにかけて藤原定家は源氏と狭衣の作中歌をそれぞれ百首、番えて『源氏狭衣百番歌合』を編んでいる(『物語二百番歌合』のうち「百番歌合」と呼ばれ、藤原良経の命を受けて『夜の寝覚』以下十篇の物語から選歌した「拾遺百番歌合」と成立時期が異なるとされる)。
『狭衣物語』の本文は伝本間での異同が激しく、研究者の間ではおおよそ3種類ほどの系統に分類されているが、一見して全4巻揃った伝本とみられるものでも、実際には巻ごとに違う系統の取り合わせ本というものも多い。また同じ巻のなかでも、異なる系統の本文が途中で混入したものもあるなど、その本文の状態はかなり錯綜しているが、江戸時代はじめの元和9年(1623年)には古活字本の『狭衣物語』が版行されており、この本文が一般には流布している。元和の古活字本とほぼ同じ本文を持つ春夏秋冬4冊本の写本は、新潮日本古典集成に収録された『狭衣物語』(鈴木一雄の校注になる)で底本に使われた。
三谷榮一・吉田幸一ら研究者による伝本系統の研究で最善とされてきた深川本(旧西本願寺所蔵の鎌倉初期の写本)が最終巻(巻四)を欠くため、岩波書店から刊行している日本古典文学大系『狭衣物語』などでは同じ系統に属する内閣文庫本(こちらのほうは近世初期の写本)を底本に使い、深川本と照合して整理することが多い。
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