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平安時代から近代にかけて和装での礼服着装の際に成人男性が被った帽子 ウィキペディアから
初期は黒漆塗りの絹や麻で仕立てたものであり、しなやかな素材であったが、平安時代末期の頃には紙を黒漆で固めたものに変わる[1]。庶民のものは麻糸を織ったものである。衣装の格式や着装者の身分によっていくつかの種類があり、厳格に使い分けた。正装の際にかぶる冠より格式が落ち、平安から室町にかけては普段着に合わせて着装した。中国の烏帽が原型ではないかという説がある[2]。
平安以降、次第に庶民にも普及し、鎌倉から室町前半にかけては被り物がないのを恥とする習慣が生まれた。例えば「東北院職人歌合絵巻」(東京国立博物館蔵、重要文化財)には、身ぐるみ失った博徒がまだ烏帽子を着けている様子が描かれている[3]。つまり、烏帽子は当時の男性の象徴であり、これを取られる(または脱がされる)ことは屈辱的、恥辱的行為であり、紛争の発端になりやすかった。細川政元は数々の奇行で知られたが、烏帽子を嫌って被らなかったことも奇行として捉えられていた。しかし戦国時代以降、逆に日常は髷を露出し被り物を着けないのが普通となった。
明治以降は髷を結う習慣が失われたため、頭にすっぽりとかぶり掛緒を顎にかけて固定するタイプのものが用いられることが多くなったが、これに反して、明治初期の公家は大きい烏帽子を多用していた。
烏帽子形(えぼしなり)の兜は、烏帽子を模した、あるいは烏帽子に似た形状から、このように呼ばれる。
昭和15年(1940年)に制定された国民服(甲号)の帽子のデザインは、烏帽子をイメージしたものであるとされている。
現代日本では、烏帽子が用いられる場面としては、神道・神社の神職、大相撲の行司、雅楽装束、時代劇、一部の伝統行事、歴史をイメージしたイベントなどが挙げられる。
材料は和紙、特に明治以前の物の質が良い。洋紙を使ったものもあるが、和紙は軽くて繊維も長いことから丈夫に加工できる。和紙に糊を塗り3枚重ね、くしゃくしゃに丸めて糊を馴染ませていく。「しぼ」(烏帽子の凹凸)が象られた銅板に載せ、ささら(刷毛状の道具)で「しぼ」を浮き立たせる。乾燥させた後、柿渋を塗り2枚を繋ぎ縁を付け、立体にするため金属の型に巻き付け糊と小手で接着し温める。烏帽子正面の「顔」を整えて中心と縁に縁取りを巻き、漆を塗って仕上げる[4]。
烏帽子職人の数は少なくなっている。
武家の元服の儀式で新成人(烏帽子子)の後見人を勤める者を「烏帽子親」と呼ぶ。平安時代の初冠の儀に由来するもので、宮中の位階を持つ貴族が冠を着用するのに対して烏帽子を持ち出したのが由来。どちらにしても、この日を境に男性は頭に冠や烏帽子をかぶり、大人社会に迎えられる。
ちなみに、平安時代の子供が遊びの中で大人を真似て、烏帽子の代わりに額に結わえつけた三角の布が、後に死者の威儀を正すために死装束に加えられた。ただし、色のみ黒ではなく死装束の色である白に変わっている。
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