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平安時代末期の武将。源義家の六男?七男?。宮内少大輔従五位下、信濃守。領相模毛利庄。子に高松定隆 ウィキペディアから
源 義隆(みなもと の よしたか)は、平安時代末期の河内源氏の武将。源義家の七男(六男とも)。
森冠者、陸奥冠者、陸奥六郎または陸奥七郎などと号した。七男であるが、六郎ともいう。官位は無位無官と看做されることが多いが、宮内少輔従五位下に任ぜられるとも[1]。子には毛利義広、若槻頼隆、高松定隆らがいる。
義家の子の中で一番の長命とされ、一族の長老として尊崇を集め、相模国毛利庄(現・神奈川県厚木市毛利台)を領した。
平治元年(1159年)の平治の乱で、源氏の棟梁源為義(甥にあたる)の長男源義朝に従って参戦。『平治物語』によると、平氏に敗れて東国へ落ち延びる際、比叡山の竜華越で落人狩りの横川の悪僧の一群と遭遇する。義隆は義朝の次男・朝長と共に義朝の盾となり、悪僧の放った矢にあたって落命した。義朝は義隆の首が敵の手に落ちぬよう、自ら堅田の湖(滋賀県大津市)に重しをつけて沈めたという。
官職は不明だが、位階は六位、記録によっては信濃守と載せる。おそらくは平治の乱における藤原信頼の除目によるものと考えられる。信頼が逆臣とされたために、正規の人事として記録されなかった可能性もある。
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