浅井井頼
安土桃山時代から江戸時代前期にかけての武将 / ウィキペディア フリーな encyclopedia
浅井 井頼(あざい いより)は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけての武将。讃岐丸亀藩客分。近江の戦国大名・浅井長政の庶子。通称は喜八郎、周防守。諱は複数伝わり、政信[14][15]、政賢[注釈 7]・政堅[注釈 8](まさかた)、長春[注釈 9]、政資[18](まさすけ)、長房[注釈 10]など。晩年は作庵と号した。
概要 凡例浅井井頼, 時代 ...
時代 | 安土桃山時代 - 江戸時代前期 |
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生誕 | 元亀3年(1570年)から天正2年(1574年)の間 |
死没 | 不詳、[一説に]寛文元年(1661年)5月16日[1][注釈 1] |
改名 | 童名喜六[2]、井頼、浅井作庵、京極作庵 |
別名 |
政信、政賢(政堅)、政資、長春、長房 通称:喜八郎、周防、周防守 |
戒名 | 禅徳院殿実岩道意居士[1] |
墓所 | 泰雲山玄要寺(香川県丸亀市南条町) |
官位 | 周防守 |
主君 | 羽柴秀勝→豊臣秀長、秀保→増田長盛→生駒一正→山内忠義→豊臣秀頼→京極忠高 |
藩 | 丸亀藩藩士 |
氏族 | 浅井氏 |
父母 | 浅井長政 |
兄弟 |
万福丸、茶々[注釈 2]、初、江 万寿丸[注釈 4](蒼玉寅首座[注釈 5]) 井頼、円寿丸[注釈 6] |
子 |
女(石川光元正室)[12] 熊之助、長章(周防守)、女(名村玄達室)[13][要出典] |
特記 事項 | 落城時母方の里にいたという口伝もあり、徳川家や京極家では浅井長政の子という資料が残っている[2]。 |
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