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戦国時代の武将。丹波国の有力国人 ウィキペディアから
波多野 元清(はたの もときよ)は、戦国時代の武将。室町幕府10代将軍・足利義稙から偏諱を受け、稙通(たねみち)と名乗り、室町幕府の評定衆にも列せられたとされるが、稙通という名や評定衆就任の事実は一次史料では見られない。
波多野清秀の子として誕生した。
初め仙甫寿登の弟子となり名を寿浩、号を養賢と名乗ったが、15歳の時に波多野氏を継ぐことになり還俗したという[2][注釈 1]。
父・清秀が永正元年(1504年)6月24日[4]に没した後、9月の薬師寺元一の乱の討伐に参加する[5]。細川政元暗殺後の細川澄元と細川高国の争いでは、高国方に転じている[6]。
永正5年(1508年)6月には多紀郡の酒井氏を酒井合戦で破り[7][8]、7月には中沢(長沢)元綱を福徳貴寺で戦死させ[9]、波多野氏を丹波有数の勢力へと発展させた。また、細川高国から信頼を得て、長弟の香西元盛は永正4年(1507年)に死去した香西元長の名跡を、同じく次弟の柳本賢治は永正17年(1520年)に死去した柳本長治の名跡を継いでいる[10][注釈 2]。
大永6年(1526年)、香西元盛が細川尹賢の讒言を信じた細川高国に殺害されると、柳本賢治と共に細川晴元に呼応して蜂起し、攻め寄せてきた高国方の軍を破る。翌大永7年(1527年)には病を患っていたようで[12]、当初は賢治と子の秀忠のみが上洛しており[13]、桂川原の戦いにも不参加だった可能性がある。
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