波多野清秀

室町時代の武将。八上波多野氏 ウィキペディアから

波多野 清秀(はたの きよひで、嘉吉3年(1443年) - 永正元年7月24日1504年9月2日[1])は、室町時代の武将。清秀に当たる人物の名を「秀長」とすることもあるが[2]、一次史料にみられる波多野秀長は別の人物である。子に波多野元清香西元盛柳本賢治など。

概要 凡例波多野 清秀, 時代 ...
 
波多野 清秀
時代 室町時代戦国時代
生誕 嘉吉3年(1443年
死没 永正元年7月24日1504年9月2日
幕府 室町幕府
主君 細川勝元
氏族 丹波波多野氏
父母 父:石見吉見氏某、母:丹波波多野氏
元清香西元盛柳本賢治池田貞正
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生涯

清秀の没後、清秀の肖像に画賛を記した月舟寿桂[3]によると、石見国吉見氏の一族で18歳の時に上洛して細川勝元に仕えたという[4][注釈 1]

清秀は勝元の命で母方の波多野姓を名乗り[6][注釈 2]応仁の乱の戦功によって、勝元の子・政元から丹波国多紀郡を与えられた[8]

文明17年(1485年)には丹波守護代上原元秀のもと、多紀郡の小守護代として活動している[9]。また摂津方面にも勢力を伸ばし、摂津国野間荘時友郷の代官を務めた[10]

以後、波多野氏は丹波国に勢力を拡大させていく。

永正元年(1504年)に62歳で没した[11]

脚注

参考文献

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