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戦国時代、江戸崎は土岐氏が支配していたが、天正18年(1590年)の小田原征伐によって滅ぼされた。その後江戸崎には、常陸国一国を支配していた佐竹義宣の弟である蘆名盛重が4万5,000石で入った。しかし慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いで義宣は東西どちらにも付かずの行動をしてしまい、盛重も兄の行動に追従したため、戦後に徳川家康によって佐竹氏は出羽国(後の羽後国)久保田藩に転封処分となり、蘆名氏もそれに追従して出羽角館1万6,000石に減じられ転封となった。
慶長8年(1603年)、本多正信や内藤清成らと並んで関東総奉行を務めた徳川譜代の家臣・青山忠成が1万石で入ったことにより江戸崎藩が立藩する。なお、忠成の嫡子・青山忠俊は父と別に5,000石を領していたが、徳川家光の後見人となったため、慶長15年(1610年)に下野国都賀郡鹿沼において5,000石を加増され、独立した1万石の大名となっている。慶長18年(1613年)、忠成が死去したため、忠俊がその遺領を相続して3万5000石を領することとなった。元和2年(1616年)には老中に栄進し、元和6年(1620年)には1万石を加増の上で武蔵岩槻藩に転封となった。
その後、常陸古渡藩より丹羽長重が2万石で入るが、元和8年(1622年)に3万石加増の上で陸奥棚倉藩へ転封となり、江戸崎藩は廃藩となった。
1万5000石→3万5000石 譜代
2万石 外様
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