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幕末の薩摩藩士、明治期の裁判官,政治家。元老院議官、貴族院勅選議員。 ウィキペディアから
橋口 兼三(はしぐち けんぞう、1828年8月24日(文政11年8月15日[1]) - 1900年(明治33年)2月25日[2])は、幕末の薩摩藩士、明治期の裁判官・検察官・政治家。元老院議官、貴族院勅選議員、錦鶏間祗候。旧名・与一郎[1]。
薩摩藩士・橋口与三次の長男として生まれる[3]。
明治2年2月(1869年)薩摩藩の藩政改革時に新設の糺明局総裁に就任し、以後、参政、権大参事を歴任[4]。
廃藩置県後、明治政府に出仕し、明治4年11月15日(1871年12月26日)美々津県参事に就任[1]。同年12月7日 (1872年1月16日)司法省七等出仕に転じた[1][5]。
明治5年4月7日(1872年5月13日)司法権少判事となる[1]。以後、司法権中検事、司法中検事、権中検事、中検事・大坂上等裁判所在勤、検事、判事・大坂控訴裁判所詰、大坂控訴裁判所検事長などを歴任[1]。この間、1876年に萩の乱の臨時裁判所に検事として出張し、また、1877年に西南戦争の九州臨時裁判所にも検事として出張した[1]。
1883年11月14日、元老院議官に就任[1]。1889年、高等法院予備裁判官、さらに同陪席裁判官を仰せ付けられた[1]。1890年10月20日、元老院が廃止され非職となり錦鶏間祗候を仰せ付けられた[1]。1891年4月21日、非職元元老院議官を依願免本官となる[6]。同年4月15日、貴族院勅選議員に任じられ[7]、死去するまで在任した[2]。
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