柳生宗厳
戦国時代から江戸時代初期にかけての武将 / ウィキペディア フリーな encyclopedia
親愛なるWikiwand AI, これらの重要な質問に答えるだけで、簡潔にしましょう:
トップの事実と統計を挙げていただけますか 柳生宗厳?
この記事を 10 歳向けに要約してください
すべての質問を表示
柳生 宗厳(やぎゅう むねよし/むねとし/そうごん[2]、宗嚴)は、戦国時代から江戸時代初期にかけての武将。新陰流の兵法家。百官名は但馬守。通称は新介、新左衛門[3]。入道してからは石舟斎(せきしゅうさい)と号した。子に柳生厳勝(柳生利厳の父)、柳生宗矩、柳生宗章ほか。
概要 凡例柳生 宗厳, 時代 ...
時代 | 戦国時代 - 江戸時代初期 |
---|---|
生誕 | 大永7年(1527年) |
死没 | 慶長11年4月19日(1606年5月25日) |
別名 | 新介、新左衛門、石舟斎 |
戒名 | 芳徳院殿故但州刺史荘雲宗厳居士 |
墓所 |
中宮寺 芳徳寺 |
主君 | 筒井順慶、松永久秀→徳川家康 |
氏族 | 柳生氏 |
父母 | 父:柳生家厳 |
兄弟 | 松吟庵 |
妻 | 奥原助豊娘・鍋(春桃御前)[1] |
子 | 厳勝、久斎、徳斎、宗章、宗矩 |
テンプレートを表示 |
閉じる
大和の国人・柳生氏の当主。はじめ筒井順慶に仕え、後に松永久秀の家臣となって頭角を表すも松永氏が滅亡したこともあって武将としては不遇に終わる。一方で上泉信綱より伝授された新陰流の剣豪として名高く、徳川家康の師範に招かれ、息子宗矩を推挙したことで柳生家繁栄の切っ掛けを作った。宗厳本人は生涯自身の流派を新陰流と名乗ったが、柳生流(柳生新陰流)の流祖に位置づけられることもある[4]。