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松平 勝忠(まつだいら かつただ)は、江戸時代前期の大身旗本(交代寄合)。名は勝易(かつやす)とも[2][1][注釈 2]。官位は従五位下・豊前守。下総国多古陣屋を居所とし、駿府城代を務めて最終的に9000石を知行した。多古松平家は次代で大名に列する(多古藩)。
元和9年(1623年)、松平勝義の二男として、江戸で誕生[2][1]。寛永11年(1634年)8月16日、駿府において上洛からの帰途にあった3代将軍・徳川家光に、兄・勝則(勝就)とともに拝謁する[2](当時、当主である祖父の松平勝政が駿府城代を務めていた[3])。正保2年(1645年)6月26日に書院番に列した[2]。正保4年(1647年)12月20日、蔵米300俵を支給される[2]。寛文9年(1669年)7月8日、書院番組頭に昇進し、300俵を加えられる[2]。同年、兄の勝則が亡くなったため[2]、嗣子となった[1]。
寛文10年(1670年)、父・勝義が死去したため、12月18日に家督を継承する[2]。この時、弟・勝光と勝郷(勝忠)に500石ずつ知行を分与し、7000石を知行した[2](先に与えられた蔵米は収公[2])[注釈 3]。寛文11年(1671年)5月4日に書院番頭となり、同年12月28日には従五位下・豊前守に叙任された[2]。同年、下総国香取郡にあった知行地の一部を下総葛飾郡・上総国武射郡・長柄郡・山辺郡に移されている[2][注釈 4]。椿新田(椿海干拓)の功労とされる[1]。延宝元年(1673年)に初めて多古に赴く暇を賜った[1]。
延宝2年(1674年)8月29日に大番頭[2]、延宝4年(1676年)6月3日に駿府城代に任命された[2]。この際に上総国武射・長柄・埴生・山辺郡で2000石を加増され、知行は合計9000石となった[2][1]。延宝8年(1680年)5月24日、駿府において58歳で死去[2]。同様に駿府城代在任中に死去した祖父・勝政の墓所がある、慈悲尾の増善寺に葬られた[2][5][注釈 5]。嗣子が無かったため、養子となっていた末弟の勝以が跡を継いだ[2]。
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