東海道五十三次 (浮世絵)
歌川広重による浮世絵木版画の連作 / ウィキペディア フリーな encyclopedia
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『東海道五十三次』(とうかいどうごじゅうさんつぎ。東海道五拾三次とも)は、東海道の宿駅を中心とした景観や習俗を描いた、浮世絵木版画である。名所絵が主となる場合が多いが、人物が主体で景観が従となるなど、さまざまである。形態としては揃物[注釈 1]、張交、双六、千社札、団扇絵、絵封筒、絵本などがある[2]。なお、画題に「東海道」「五十三次」を含むものをまとめて「東海道(もの)」や「五十三次(もの)」と呼ぶこともある[3]。
代表的な作品としては天保5年(1834年)頃に保永堂から版行された歌川広重の「東海道五拾三次之内」があげられる[2][4]。
ただし、浮世絵版画としては、版本「東海道名所記」(寛文年間(1661-1673))や菱川師宣の版本「東海道文間図会」(元禄3年<1690年>)から始まるとされる。喜多川歌麿は「美人一代五十三次」(享和年間 - 文化年間頃(1801-1808))、葛飾北斎は文化年間(1804-1818)に狂歌摺物「春興五十三駄之内」や「東海道五十三次 絵本駅路鈴」など7種の揃物が出ている。また、広重の師匠である歌川豊広も「東海道五十三次」を出している。広重の保永堂版東海道五十三次の成功により、その後は広重自身も含め多くの浮世絵師が東海道ものを出している[5][6]。
本記事では、歌川広重による保永堂版五十三次55図(#版元)について述べ、それ以降に版行された広重による五十三次(#保永堂版以外の五十三次・#五十三次図一覧)や、広重以外の五十三次についても触れる(#五十三次前史・#広重以降の五十三次)。保永堂版制作に際し、広重は江戸と京都を往復したとする説と、それを否定する説がある(#取材の有無)。
百聞は一見にしかず、視覚的な作品を理解するには、言葉による説明よりもまず実物を見ていただくことが肝要なので、最初に次節で保永堂版及び、行書版と隷書版の55図を掲載し、その下の節で浮世絵の東海道五十三次の歴史や研究者による細かい分析を掲載する。