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朽木 友綱(くつき ともつな)は、江戸時代前期の旗本。交代寄合(朽木領主9590石)朽木元綱の二男。幕府に出仕して別家を立て、最終的に3010石余の領主となった。万木(ゆるぎ)朽木家初代。
慶長4年(1599年)[注釈 1]、朽木元綱の二男(庶子[注釈 2])として生まれる[1]。稙綱は同母弟[3]。
朽木元綱と細川忠興が親しい関係にあったため、友綱ははじめ忠興のもとにあった[1]。元和元年(1615年)の大坂夏の陣では細川忠興に従って参戦し、天王寺の戦いで首級を得た[1]。
元和4年(1618年)3月13日、徳川秀忠に召し出され、書院番となって蔵米500俵を給された[1]。のちに、蔵米取から知行取に改められ、近江国栗太郡内で1000石を領した[1]。寛永9年(1632年)8月11日に御徒頭となり、同年冬に布衣を許された[1]。
この寛永9年(1632年)8月29日、父の朽木元綱が死去している[4]。元綱はさきに家督を長男の朽木宣綱に譲っており、近江国高島郡内に3240石を隠居領として領していた。12月6日、元綱の隠居領を宣綱・友綱・稙綱の兄弟が分配して相続することが認められた[2]。友綱は、元綱の遺領のうち2010石を相続し、知行は合計3010石となった[1]。
寛永10年(1633年)2月19日、同じ御徒頭の神尾守勝・近藤用行・安藤正珍とともに、宇治採茶使に任じられる[5]。宇治採茶使は将軍家御用の新茶を宇治から江戸に運ぶ任務(いわゆる「御茶壷道中」)で、前年の寛永9年(1632年)に制度化された[5]。朽木友綱らの発遣が、制度化された宇治採茶使の最初の事例である[5]。
正保4年(1647年)9月26日に書院番組頭となり、承応2年(1653年)9月27日まで務めた[1]。寛文2年(1662年)8月8日没、享年64[1]。
朽木友綱が近江国高島郡で父の遺領から相続した領地は、南古賀村・長尾村・東万木村・追分村の各一部および中野村の、計2010石余である[6]。友綱は江戸青山掃除町の屋敷に居住したが[6]、
万木朽木家は、『寛政重修諸家譜』編纂時まで、友綱―正綱―長綱―明綱―
『高島郡誌』によれば、安政2年(1855年)の安政の改革にともない夫人や世嗣の在国が認められると、万木朽木家(維新期の当主は朽木勇太郎[9])も家臣団とともに東万木村に移った[6]。東万木には家臣のための長屋も設けられたという[6]。しかし、明治維新後の知行地返上にともない、当主は江戸(東京)に帰り[10]、家臣も離散した[6]。
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