春風亭柳條
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春風亭 柳條(しゅんぷうてい りゅうじょう)は、落語家の柳派の名跡。5代目がおきらく亭はち好と改名してからは空き名跡となっている。
- 初代春風亭柳條 - 本項にて記述。
- 2代目春風亭柳條 - 後の5代目三升家小勝。
- 3代目春風亭柳條 - 後の6代目立川談志。
- 4代目春風亭柳條 - 後の5代目柳亭燕路。
- 5代目春風亭柳條 - 後のおきらく亭はち好。
- 春風亭柳城 - 名前の読みが同じ。
春風亭 柳條(しゅんぷうてい りゅうじょう、1845年6月 - 1896年11月12日)は、落語家。本名は加藤 力松。
最初は講釈師の3代目一龍斎貞山の門で一龍斎貞朝という。3代目春風亭柳枝の門で春風亭桃條から1882年、3年ころに柳條となった。人柄や芸風は余り伝わっていない。
(前略)春風亭柳條 此人は元講釈師で、馬琴(※筆者の誤り)と云った人。疳の為に、口が曲がって居るので、楽屋で、曲り曲りと皆な云って居りましたが、柳連の幹事をして居たので、中々巾が利きました。又正直で上下の別なく間違った事は承知しません。師匠柳橋さんでも、一目置いて居りました。一人娘は小柳子と云って、六歳位で母親の小鈴の糸で天才的上手なので其頃東京第一の売れっ子、後に立花家橘之助の弟子になって家橘(※こちらも筆者の誤りで実際は花橘)と云って居りましたが、三十歳位で死にました。一人の伜があって春風亭柳橘と云って席で働いて居ります。小鈴さんは八十五歳で未だ壮健で、江戸っ子がってタンカを切って居ります。
神経症(疳)で口が曲がっていたことから『まがりの柳條』と言われた。実の弟は三遊亭圓徳(通称『朝三小僧』)。
明治中期の4代目三升亭小勝、8代目入船亭扇橋、4代目春風亭柳枝らと共に柳派の支柱となった実力者。
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