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隋朝の州 ウィキペディアから
581年(開皇元年)、隋により易州が立てられ、下部に1郡3県を管轄した。583年(開皇3年)、隋が郡制を廃すると、易州の属郡の昌黎郡は廃止された。607年(大業3年)に州が廃止されて郡が置かれると、易州は上谷郡と改称され、下部に6県を管轄した[1]。隋代の行政区分に関しては下表を参照。
621年(武徳4年)、唐が竇建徳を滅ぼすと、上谷郡は易州と改められた。742年(天宝元年)、易州は上谷郡と改称された。758年(乾元元年)、上谷郡は易州の称にもどされた。易州は河北道に属し、易・遂城・淶水・容城・満城・五迴の6県を管轄した[2]。
五代のときには、易州は定州節度使に属した。
989年(統和7年)、遼が北宋から易州を奪取し、高陽軍が置かれた。遼の易州は南京析津府に属し、易・淶水・容城の3県を管轄した[3]。
1122年(宣和4年)、金が易州を北宋に返還した。北宋の易州は燕山府路に属し、易・淶水・容城の3県を管轄した[4]。
1125年(天会3年)、北宋の易州戍将の韓民毅が金に降った[5]。金の易州は中都路に属し、易・淶水の2県を管轄した[6]。
1239年、モンゴル帝国により易州は順天府に属した。1273年(至元10年)、元により易州は大都路に転属した。1286年(至元23年)、易州は保定路に転属した。易州は易・淶水・定興の3県を管轄した[7]。
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