チッソ

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チッソ株式会社: CHISSO CORPORATION[4])は、明治後期に創業し、第二次世界大戦をはさみ発展した日本化学工業メーカー[5]。熊本県水俣市を中心として八代海沿岸地域で発生した水俣病の原因を作った[6][7][8]。2011年3月31日をもって事業部門を中核子会社のJNC株式会社に移管し、水俣病の補償業務を専業とした[9]事業持株会社となっている。

概要 種類, 機関設計 ...
チッソ株式会社
CHISSO CORPORATION
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本店(中之島ダイビルに入居)
種類 株式会社
機関設計 監査役会設置会社[1]
市場情報
GSオーディナリー(廃止) 4006
2000年4月3日 - 2018年3月31日
JASDAQ(上場廃止) 4006
2000年4月1日上場廃止
[2]
本社所在地 日本
100-8105
東京都千代田区大手町二丁目2番1号
新大手町ビルヂング9階
北緯35度41分5.51秒 東経139度46分1.36秒
本店所在地 530-6108
大阪府大阪市北区中之島三丁目3番23号
中之島ダイビル
北緯34度41分35.12秒 東経135度29分37.21秒
設立 1950年昭和25年)1月12日(新日本窒素肥料株式会社)
業種 化学
法人番号 5120001067055
事業内容 持株会社として事業会社であるJNC株式会社の管理・監督
代表者 山田敬三(代表取締役社長
資本金
  • 78億1300万円
(2024年3月31日現在)[3]
発行済株式総数
  • 1億5627万9375株
(2024年3月31日現在)[3]
売上高
  • 連結: 1314億4200万円
  • 単独: -円
(2024年3月期)[3]
営業利益
  • 連結: 12億2700万円
  • 単独: △3億4800万円
(2024年3月期)[3]
経常利益
  • 連結: 4億0200万円
  • 単独: 11億9800万円
(2024年3月期)[3]
純利益
  • 連結: △35億8400万円
  • 単独: △15億1100万円
(2024年3月期)[3]
純資産
  • 連結: △1183億1200万円
  • 単独: △1826億7300万円
(2024年3月31日現在)[3]
総資産
  • 連結: 2695億2800万円
  • 単独: 620億5100万円
(2024年3月31日現在)[3]
従業員数
  • 連結: 2,650人
  • 単独: 23人
(2024年3月31日現在)[3]
決算期 3月31日
会計監査人 EY新日本有限責任監査法人[3]
主要株主
主要子会社
関係する人物 野口遵吉岡喜一江頭豊島田賢一後藤舜吉細川一
外部リンク https://www.chisso.co.jp/
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登記上の本店を大阪市北区中之島に、本社を東京都千代田区大手町に置く。

旭化成積水化学工業積水ハウス信越化学工業センコーグループホールディングス日本ガスなどの母体企業でもある。

主な子会社・関連会社として、JNC、JNC石油化学(旧:チッソ石油化学)(事業所:千葉県市原市)、九州化学工業(工場:福岡県北九州市)、JNCファイバーズ(旧:チッソポリプロ繊維・事業所:滋賀県守山市)や、ポリプロピレン事業合弁会社の日本ポリプロなどがある。また、日本国内の合弁相手に吉野石膏や同社と同根である旭化成がある。

有していた事業部門

液晶事業において、ドイツのメルク社と並び世界のトップシェアを誇り事業の柱としていた。バイオテクノロジー・電子部品部門も展開する一方、旧来からの肥料事業・農事産業部門も継続していた。石油化学部門では、三菱化学の石化セグメント子会社、日本ポリケムとのポリプロ事業統合などで、事業のさらなる展開を図っていた。

沿革

  • 1906年 - 曾木電気株式会社設立。社長は野口遵鹿児島県伊佐郡
  • 1907年 - 日本カーバイド商会設立。
  • 1908年 - 曾木電気株式会社と日本カーバイド商会が合併し、商号を日本窒素肥料株式会社に変更。
  • 1923年 - 延岡工場完成。
  • 1927年 - 朝鮮窒素肥料株式会社設立。
  • 1931年 - 延岡アンモニア絹絲株式会社設立。社長は野口遵。本店は大阪市北区宗是町。
  • 1950年1月12日、日本窒素肥料株式会社は、企業再建整備法に基づき、新日本窒素肥料株式会社(新日窒)として再発足(資本金4億円)[10]。本社は東京都千代田区
  • 1956年 - 日窒アセテート株式会社設立。水俣病患者の公式確認。
  • 1958年
    • 日窒電子化学株式会社設立。
    • 新日本窒素肥料社長に吉岡喜一が就任[11]
  • 1960年 - 九州化学工業株式会社設立。
  • 1961年8月9日 - 水俣工場でタンクが爆発する事故。死者・行方不明者12人[12]
  • 1962年 - チッソ石油化学株式会社設立。
  • 1965年1月1日 - 商号をチッソ株式会社に変更。
  • 1970年 - 水島工場竣工。
  • 2011年1月12日 - 製造販売等の事業分割先としてJNC株式会社を設立。

歴代社長

曾木電気〜日本窒素肥料

野口遵ほか

新日本窒素肥料~チッソ
さらに見る 氏名, 就任年月日 ...
氏名就任年月日退任年月日
白石宗城1951年(昭和26年)7月1958年(昭和33年)
吉岡喜一1958年(昭和33年)1964年(昭和39年)
江頭豊1964年(昭和39年)12月1971年(昭和46年)7月27日[13]
島田賢一1971年(昭和46年)7月27日1977年(昭和52年)6月
野木貞雄1977年(昭和52年)1993年(平成5年)
後藤舜吉1993年(平成5年)6月[14]2003年(平成15年)6月
岡田俊一2003年(平成15年)6月2011年(平成23年)6月29日
森田美智男2011年(平成23年)6月29日2017年(平成29年)6月26日[15]
後藤舜吉2017年(平成29年)6月29日2018年(平成30年)12月21日[16]
木庭竜一2018年(平成30年)12月21日2024年(令和6年)6月27日
山田敬三2024年(令和6年)6月27日現職
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水俣病

要約
視点

1932年から[17]チッソの水俣工場が触媒として使用した無機水銀の副生成物であるメチル水銀を含んだ廃液を海に無処理でたれ流したため、水俣病を引き起こした。1960年代に電気化学から石油化学への転換が遅れたことに加え、1962年7月から翌1963年1月まで続いた労働争議の影響で製品の販路を失うなど経営状態が悪化し、1965年には無配になった。水俣病裁判での敗訴後は被害者への賠償金支払い、第一次オイルショックなどにより経営がさらに悪化。債務超過・無配継続により1978年に上場を廃止した。その後株式は店頭管理銘柄(のちにグリーンシートの「オーディナリー」区分に編入)となり、制約つきで流通していた(株式の取り扱いはみずほ証券のみが認められている。グリーンシートが廃止された2018年4月1日以後は、同社が設置する株主コミュニティに参加することで売買できる)。

2009年3月に到り、「水俣病被害者の救済及び水俣病問題の解決に関する特別措置法」(以下特措法)が衆議院に提出され、7月8日に国会で成立した。この救済は、2010年5月から2012年7月まで申請を受け付け、2014年8月29日にその判定が完了し、該当と判断された被害者に一時金支払いが2010年10月から実施されている。

水俣病関連

  • 少なくとも1953年頃より、水俣湾周辺の漁村地区などで猫などの不審死が多数発生し、同時に特異な神経症状を呈して死亡する住民がみられるようになった。
  • 1956年5月1日、新日本窒素肥料水俣工場附属病院長の細川一は、新奇な疾患が多発していることに気付き、「原因不明の中枢神経疾患」として5例の患者を水俣保健所に報告した。これが後に水俣病の最初の公式認定となる[18][19]。当時の社長は白石宗城。戦後復興期でアセトアルデヒド生産が激増。1951年社長就任以来、猫など動物の狂死、漁獲の激減、水俣病の発生、患者の公式確認となったが、その後も量産体制継続。1958年、社長は吉岡喜一に交替。
  • 後年、1951年のチッソでのアセトアルデヒド生産方法の変更が、水俣病発生の要因との研究結果が公表。
  • 1959年7月22日、熊本大学医学部水俣病研究班が水俣病の原因物質は有機水銀であると公表した[20][21]
  • 1970年11月28日、株主総会を大阪厚生年金会館(現・オリックス劇場)で開催。会場正面入口近くに配置された特別防衛保障の警備員により、株式を取得して総会に出席しようとする水俣病患者・家族・支援者(1株株主)の入場を妨害した。会場に入場できた1株株主の発言も総会屋の野次で妨害した。総会は5分で閉会した[22][23][24][25]が、続く株主懇談会では一株株主らの抗議の中、江頭社長が引きずりだされステージの床に正座させられ「わび状」を読まされる場面もあった[26]。総会前の11月13日、「一株運動」について、当時のチッソ専務は「株主総会に出席する趣旨が反体制運動とか政治的なことだったら違った方法をとらざるを得ない」「一株運動を封じるために総会屋を雇うようなことはしない」と発言していた[27]
  • 1976年5月4日、熊本地方検察庁が、社長の吉岡喜一と元工場長の西田栄一を7人の被害者(当時6人死亡・1人生存)に対する業務上過失致死傷罪で熊本地方裁判所に起訴した[28]。事件は2人が1958年から1960年までに工業廃水を水俣川河口海域に排出し、7人を水俣病に罹患させたこととされた。裁判での最大の争点は公訴時効であり、胎児に対する傷害を含め公訴時効の起算点について争点となった。
    1979年3月22日、熊本地裁は、2人の被害者に対する業務上過失致死傷罪を認めた上で5人の被害者に対する業務上過失致死傷罪については公訴時効が成立するとして免訴とし、2人の被告に禁固2年執行猶予3年の有罪判決を言い渡した。1988年に最高裁は観念的競合における公訴時効期間の算定について本件では全部を一体として観察すべきものと解するのが相当として、7人の被害者について業務上過失致死傷罪を認めた上で有罪判決が確定した。
  • 1972年1月7日、水俣病の患者・その家族らが、マスコミ関係者ら(写真家のユージン・スミスを含む)を伴って千葉県市原市五井にある五井工場を訪問した際、企業側労働組合の組合員から殴る蹴るの暴行を受けたとされるが、本件について刑事責任を問われた者はいない。

脚註

参考文献

関連項目

外部リンク

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