新田 貞靖(にった さだやす)は、江戸時代後期の高家旗本。由良家11代当主。維新以前は由良 貞靖を名乗った。
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生涯
天明5年(1785年)、陸奥国守山藩3代藩主・松平頼亮の四男または五男[1]として誕生。文化11年(1814年)3月27日、由良貞陰の養子となった。同年7月22日、貞陰の隠居により家督を相続する。同年9月22日、11代将軍・徳川家斉に御目見し、表高家となる。
文政2年12月24日(1820年)、高家職に就任し、諸大夫と成り改名を命ぜられ、名乗りを久之助から播磨守と改める。天保13年(1842年)5月15日、従四位下に昇進する。嘉永5年(1852年)5月26日、高家肝煎となり、役料800俵を賜る。嘉永7年(1854年)2月18日、従四位上。文久3年(1863年)12月21日、高家肝煎を辞し、雁之間高家末席となる。元治元年(1864年)7月29日、養子・貞時に家督を譲る。その際500俵を隠居料として賜る。
慶応4年(1868年)、隠居の身ながら家臣と協議し、新田姓に復することを決議する。貞時と共に新田姓となり、「新田四位侍従」と呼称された。
明治2年(1869年)2月9日、死去。享年85。法名は徳勝院殿施道良門大居士。
菩提寺は、新田由良家歴代と同じく芝二本榎の國昌寺。
系譜
脚注
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