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日本の作曲家 ウィキペディアから
新実 徳英(にいみ とくひで、1947年8月5日 - )は、日本の作曲家。桐朋学園大学院大学教授、東京音楽大学客員教授。
愛知県名古屋市に生まれる。愛知県立旭丘高等学校、東京大学工学部卒業後、東京藝術大学卒業および同大学院修了。間宮芳生、矢代秋雄、三善晃、野田暉行に師事。幼稚園から小学生時代まではヴァイオリンを習う。高校時代から合唱に親しみ、名古屋の名門合唱団「東海メールクワイアー」や東大在学中には大中恩の主催する合唱団「コール・Meg」に参加した[1][2]。東大在学時は、東大闘争の真っただ中であったが、「完全にノンポリ」[3]として闘争からは距離を置いていた。大学が封鎖されたことで、音楽への思いを強めることとなった。
本格的に作曲家を志し芸大へ行き直そうと大中に相談するも、大中からは「俺は教えないよ」[4]と断られ、三浦洋一の紹介で三善晃に師事し、東大卒業後に東京藝大への入学を決める。もっともこの際、三善は半年ほど新実の弟子入りを断っている。その理由として三善は三浦から「こいつ(新実)は家業の跡取りだから適当なことを言って追い返してください」[1][3]と事前に吹き込まれていたとされ、三善は戸田邦雄や入野義朗らの例を出して独学での作曲を勧めたといい、新実がこの事実を知ったのは作曲家として大成した後のことである[5]。
出世作は「アンラサージュ」であり、「一元的な多層が絡み合う。それで、全体では方向性を持つ」[7]というヘテロフォニー的な語法を確立する。以後の作品は「アンラサージュ」のような抽象的な語法の作品と、「幼年連祷」をはじめとする調性で書かれた作品とに二分される。1980年代には後者の系統の合唱曲を多く発表し、合唱の世界で人気の作曲家となる一方、前者の系統に連なるオーケストラ作品は難航した。
80年代末~90年代に入り、前者の系統は、「宇宙」や「生命」をテーマにした独自の世界観を表現したオーケストラ作品に取り組み始める。後者の系統は「白いうた 青いうた」の連作へと発展していく。この二極分化について後に新実は「とにかく両極端をやる、と。これが楽しかった」[8]「もっとシリアスにこれまで試みたことのない語法で書くことと、この「白いうた青いうた」と、どっちかだけをやればいいと思うようになりました。いわゆる普通の合唱曲に関心がなくなってしまいましたね」[9]としている。
『弦楽四重奏曲』以降は、旋法的[10]な色彩の強い音楽である。
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