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日本の作曲家 ウィキペディアから
若い頃の名前は「義郎」であり、1958年以降、現在の名前に改名[2][注釈 1]。十二音技法を始めとする20世紀音楽の創造と啓蒙に尽力すると共に、桐朋学園を中心に後進の育成に力を注いだ[3]。作品は劇音楽、管弦楽、室内楽、声楽など多岐にわたる[4]。1980年の没後、従五位勲四等旭日小綬章を授与された[5]。また同年に「入野賞」、1981年に「アジア作曲家連盟入野義朗記念賞」が設けられ、ともに若い作曲家のための登竜門として今日まで存続し続けている[5]。
入野は1921(大正10)年、貿易会社勤めの父の赴任地、旧ソビエト連邦のウラジオストックに生まれた[2]。両親は熱心なハリストス正教徒で、義郎と名付けられた。6歳の時一家で帰国する。13歳で中野にある東京高等学校 (旧制)尋常科入学した。かなり進んだ音楽教育を受け、それまでにやっていたヴァイオリンやピアノに加え学校の音楽部でクラリネットやアコーディオンにも手を染め、音楽好きの次兄に倣い作曲もした。16歳のころ、5歳年長の柴田南雄と知り合う[6]。1938年17歳で東京高等学校高等科入学、在学中に独、仏、露、ギリシャ語を習得。諸井三郎の『和声学入門』を独習する。東大オーケストラに応援に行き、ヴァイオリンやフルートを演奏した。1941年20歳で東京帝国大学経済学部入学、すぐに東大オケに入り、戸田邦雄(6歳年長)、柴田南雄、三木鶏郎ら先輩と交友する。翌年柴田の紹介で諸井三郎に師事し、和声、対位法、楽式を習う。諸井宅の作品試演会で作品が演奏された[7]。
1943年9月に繰上卒業となり横浜正金銀行入行、そこから海軍経理学校へ行き呉鎮守府で軍務につく。終戦までそこに留まり終戦時は海軍主計大尉であった[7]。1945年9月に復員、銀行に復帰する。しかし半年余りで銀行を辞め、音楽関係の仕事で生計を立てる決心をした[7]。
入野は1946年2月に柴田南雄の主唱で発足した新声会に参加し、その試演会で作品を発表した。前年作曲の『絃楽四重奏曲』が日本音楽連盟賞を受賞し、3月に初演された[8]。1948年にサイゴンから帰国した戸田邦雄がルネ・レイボヴィッツの『シェーンベルクとその楽派』を持ち帰り、これをきっかけに柴田南雄らと共に音楽理論の勉強会を行う。同年『管絃楽の爲のアダヂェットとアレグロヴィヴァーチェ』が第18回音楽コンクール第2位入選した[9]。1951年には十二音技法を用いた「七つの楽器のための室内協奏曲」を作曲した。この曲は日本において、十二音技法で書かれた最初の作品と称されている[10]。同時期、『音楽芸術』誌に「シェーンベルクの作曲技法」、「十二音音楽とは何か」を発表し、理論を紹介する[11]。1953年、12音技法で『小管弦楽のためのシンフォニエッタ』作曲、これは翌年第6回毎日音楽賞受賞した。このころからNHKのラジオドラマや放送用の音楽を多く作るようになる。
1956年に柴田南雄、諸井誠、黛敏郎らと現代音楽の音楽祭開催を計画し、翌1957年20世紀音楽研究所を設立した。同年から1965年まで6回の音楽祭を開催し、シェーンベルクを始めとした新ウィーン楽派、またフランス、アメリカ、イタリア、日本の現代音楽作品を紹介した[12]。1957年にはブリヂストン美術館主催の「作曲家の個展」で入野作品が録音テープにより演奏される。「2つの弦楽器群と管・打楽器群のための合奏協奏曲」(1957年)と「シンフォニア」(1959年)で尾高賞(第6回と第8回)を受賞した。1958年『言葉と音楽のための3つの形象[13]』がイタリア賞受賞。この年、姓名判断により名前の表記を「義朗」とする。
1962年、第36回ISCM国際音楽祭 (ロンドン) 、ラジオ・テレビおよび映画についての国際会議 (ザルツブルク) 等に参加、入野作曲のオペラ『綾の鼓』がNHKから出品され第2回ザルツブルク・テレビ・オペラ賞受賞した。1963年に音楽詩劇『ほんとうの空色』が、イタリア放送協会賞を受賞した。1965年にはNHK大河ドラマ「太閤記」の音楽を担当、この年レイボヴィッツの『シェーンベルクとその楽派』を翻訳し音楽之友社から出版した。
以後、彼は、この12音技法を多くの作品で使用するとともに、海外の現代音楽や音楽文献を、日本の音楽界に紹介することに尽力した。しかしながら、前衛の時代が終わった1970年以降は自由な無調性を好んだ[14]。1967年には石井眞木、福島和夫、諸井誠と共に日独現代音楽祭を創設し、ドイツを中心とした現代音楽を紹介する音楽祭を毎年開催した[15]。1971年には東京音楽企画研究所(TOKK)を設立して所長に就任[16]、1973年から1975年にかけてTOKKアンサンブルを率いて海外公演を行った[17]。1976年には日独現代音楽祭を継承するパンムジーク・フェスティバル東京を創設し、古今東西の作品を紹介する音楽祭を開催した[17]。
このほかに入野が作曲家としてかかわった団体には次のものがある。
入野は1949年から1954年まで東京音楽書院に勤務し、編集、編曲、訳詞などを手掛けた。また1949年に「子供のための音楽教室」の教師も務めはじめ、後に桐朋学園大学付属の音楽教室となってからも続けた。桐朋学園では、1959年から桐朋学園短期大学音楽科教授[2]、1960年から1971年まで桐朋学園理事、教務部長[18]、1961年から亡くなるまで桐朋学園大学音楽学部教授[18]を務めた。
このほかに入野は、1952年から1958年までフェリス女学院短期大学音楽科の講師を務め[23]、さらに1953年から1955年まで東京工業大学で音楽概論の講師[23]も務めた。
詳細は「入野義朗の楽曲一覧」を参照
ここに載せている作品は、録音もしくは出版されたものである(映画音楽を除く)。
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