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中華民国の政治家 (1891-1949) ウィキペディアから
戴 季陶(たい きとう)は、中華民国の政治家。名は傳賢(伝賢、传贤)、字は季陶、選堂(选堂)など、号は天仇、孝園(孝园)、法名は不空、不動(不动)、筆名は散紅(散红)、泣民、思秋など。
孫文の側近で、国民政府の初代考試院長を務めた。蔣介石の次男とされた蔣緯国の実父であり、民国期の知日家、中国国民党の理論家、中華民国国旗歌の作詞者としても知られる。
庚寅年(清光緒16年)11月26日(1891年1月6日)、四川省成都府漢州(民国期は広漢県)で生まれた。原籍は浙江省湖州府(民国期は呉興県)。1949年2月12日、広東省広州市で没した。墓地は現在、四川省成都市の昭覚寺(昭覺寺、昭觉寺)にある。
戴季陶はその生涯ほぼ全時期を通じて、日本政府の朝鮮政策と中国政策を批判し、中国における共和政治建設を追求し、また、西方に対する東方(中国を代表とする)の復興を追求し続けた。彼は、共和政治建設と東方の復興の条件として、国民の意志や理念といった、ある国民をその国民たらしめるものとしての思想(戴季陶は「国民精神」と称した)を重視し、その統一を図らなければならないと主張した。そして彼は、「国民精神」の統一のために、東方古来の利他の精神を復興させつつ、西方の人道や平等の思想を受容すべきであると訴えた。
配偶者は鈕浩(鈕有恒)(1911年結婚、1942年病没)、鈕浩を亡くした後は趙文淑(1944年結婚)である。
なお、蔣緯国によると、自らの実母は重松金子、実父は戴季陶であるという(汪士淳『千山独行』)。
戴季陶は1891年1月6日、四川省成都府漢州に生まれた。12歳の冬に州試、府試に合格したものの、院試で落第し、この時点で官職を求めることを断念した(後述するが、彼は留学から帰国した後一時期官職に就く)。翌年から、成都の東游予備学校、客籍学堂高等科、華英学堂に就学し、さらに、日本人教習服部操(東文学堂)や小西三七(客籍学堂)から日本語の訓練を受けた。15歳もしくは16歳の時、すなわち1904年から1906年の間に、漢州から日本に渡った。その後1907年まで、戴季陶の行動は定かではない。1907年(丁未年)、東京の(専門学校令による)日本大学専門部法律科(法科)に入学した。1908年(戊申年)の秋、日本大学の留学生同学会会長に選出され、翌年退学した。以上から、戴季陶の日本留学時期は1904年~1906年の間から1909年まで、期間は4年ないし6年であったと言える。日本大学在学中は戴良弼と名のり、東京麹町の松浜館に下宿した。
1909年、日本大学専門部法律科を中途退学し、上海に帰国した。上海では数ヶ月間張俊生から生活の援助を受け、同年、蘇州の官立「江蘇自治研究所」(上海蘇属地方自治籌辦処)の教職に就き、清朝の官吏として生計を立てた。しかし約「一年」後、周りの研究所員の讒言により教職を解かれたという。戴季陶は蘇州から上海に行き、1910年8月、中外日報記者となり、翌9月、俸給のよい天鐸報記者に転じ、ほどなく編集主任に抜擢された。また天鐸報に勤めた時期に『民立報』にも泣民の筆名で寄稿した。この時期の戴季陶の活動ぶりは、彼が天鐸報記者時期に用いた筆名「天仇」を取って、「天仇時代」と賞されるほど際立ったものであった。当時の戴季陶の著作を見る限りにおいては、彼は新聞記者の職に就いた後、研究所で行った講義の提綱を新聞記事に転用して国民精神形成の重要性を論ずる一方、詩や小説、文学評論を執筆したり、南社や劇団「新舞台」の文芸活動に参加したりした。
戴季陶は1911年4月頃、両江総督張人駿、上海道台劉襄蓀から上海の『天鐸報』紙上で清朝政府を攻撃した罪状で指名手配され、長崎に亡命した。長崎で2週間ばかり過ごし、上海を経て、浙江省湖州に移った。湖州にて、雷鉄崖(雷昭性)からペナンに来るようにとの電報を受け取り、1911年半から10月頃まで、英領シンガポール、そしてペナンに移った。雷鉄崖は戴季陶と同じく南社の社員であり、おそらく社員の情報網を通じて戴季陶が両江総督、上海道台から指名手配されたことを知り、戴季陶に興味を持ち自分の許に招いたのであろう。こうして戴季陶はペナンで光華日報記者となり、さらに『光華日報』の重役が主盟人や紹介人となり中国同盟会に入会した。1911年10月には、武昌蜂起の報を聞き、ペナンを離れ武漢に向かった。帰国後の1912年2月、社会改良会を発起し、また、進徳会に入り甲部特別会員となった。翌3月には中華民国自由党機関紙『民権報』の編集職に就いた。
戴季陶は1912年半から全国鉄路籌劃督辦・中国鉄路総公司総理孫文の機要秘書に就き、1913年2月、3月に孫文訪日に随行し日本語通訳を務め、孫文とともに日本の政軍財界の要人と接触する中で、黄白人種闘争の危険性、および中日提携による中国革命の成就を主張し始めた。1912年8月、中国同盟会の後身である国民党が議会政党として結成された際に、戴季陶は民主立憲によって袁世凱政権の専制を穏和に改革することを希望したが、次第に孫文支持の論陣を張り、頻繁に袁世凱政権を批判する記事を発表するようになった。戴季陶は1912年末から1913年初にかけて、国民の愛国心の発揚を訴え、国民共通の意志に基づいた臨時約法(1912年3月制定)を支持し、袁世凱政権が臨時約法を遵守しないことを批判した。
戴季陶は袁世凱政権に追われて、1913年9月末に東京に亡命した。戴季陶は、大連での武装蜂起準備、高知での選挙応援(1915年3月)、神戸訪問(1915年5月)以外は、1916年4月末に離京、帰国するまで、ほぼ毎日孫文と行動を共にした。中華革命党の結成(1914年7月8日結成大会が開催された)をめぐって孫文は黄興と争い、黄興らは中華革命党は孫文の独裁が強く非民主的性格であると批判して入党を拒否した。こうして辛亥以降の革命を担ってきたグループは分裂したが、戴季陶は1913年10月2日中華革命党に入り(党員「誓約書」第6号)、同年9月から12月にかけて孫文が主宰した革命方針を検討する会議(17回開催された)に11回出席して書記を務め、翌1914年5月から中華革命党の機関誌『民国』の主筆を務め、孫文支持を表明していった。戴季陶はそれ以来1916年4月末に離京・帰国するまで、再度、辛亥革命から第二革命までの失敗の原因を究明し、その改善を図る理論構築に努めた。
戴季陶は、1914年7月末に勃発した第一次世界大戦を中国革命の成就(袁世凱政権打倒および臨時約法復活)の絶好の契機と捉え、日本の中国政策の転換を期待した。戴季陶は1915年3月、孫文の代理として日本の官憲に対し、中華革命党が中国人留学生による「対華二十一か条」(1915年1月に日本政府が提出、同年5月に中国政府が受諾)に関する中日交渉反対運動を煽ったという指摘を否定した。そして1917年9月、孫文の命令を受け、張継とともに原敬を訪ね、孫文ら南方派に対して好意的な政策を取ってほしいと要望した(戴季陶と張継は広州の非常国会に対し、原敬は南方派を支持していると報告している)。戴季陶は原敬を訪ね帰国する途中で大阪を訪問し、一般市民に対して中日両国が提携して中国革命を成就させることに理解を求めた。
戴季陶は五四運動時期に中華革命党・中国国民党の機関誌『建設』『星期評論』などで日本語の社会主義研究を翻訳・紹介し、陳独秀、施存統、陳望道、李漢俊、兪秀松、張国燾など共産主義グループとも交流した。1920年6月、戴季陶は上海の共産主義グループによる「社会共産党」の設立の第一回会合に関与したとされる。しかし彼は、その共産主義グループの二度目の会合が開かれる前(6月17日前後)に、孫文の反対もあり、精神衰弱の療養のために上海から浙江省呉興県に発ち、共産主義グループの活動から遠ざかった。
戴季陶は1920年末から1922年初にかけて、上海証券物品交易所での仲買事業と浙江省呉興県での読書生活を併せて行ったが、政治活動と執筆活動を行うことはなかった。1922年9月になって彼は、孫文から四川省の各将領に戦争を止め実業発展を図るように説得するという任務を負わされ、上海から長江を遡り成都に向かった。この途中、戴季陶は船から身を投げてしまう。結局、彼は近くの漁師に救われ、そのまま成都に向かうことができた。その後約1年間、彼は成都に留まり 、1923年12月にようやく上海に戻った。
戴季陶は1924年1月、広州で開かれた中国国民党一全大会に出席した。彼は一全大会の会期中、1922年から1923年までの四川滞在時に見聞した四川省の内戦、政治的混乱、人心退廃の原因は、中国同盟会以来中国国民党の党員の訓練不足、組織不足にあると指摘し、中国国民党が一全大会を機にボリシェヴィキの訓練、組織の方法を取り入れ、「訓練され組織された戦闘的な団体」に改造されることを期待し、彼は孫文と三民主義に対して忠誠を示した。
戴季陶は一全大会からその直後にかけて、中国国民党改組後の党員が中国国民を指導することによって国家の自強が実現されることを期待すると表明していたが、一全大会閉幕後(1月)、党の役職に就くことを辞退し広州を離れてしまった。結局、廖仲愷、次いで孫文が、戴季陶に広州で役職に就くことを再三呼びかけたため、戴季陶は4月初、広州に戻り中央の党務と政務に就いた。しかしながら、6月に再び離職して広州を離れてしまった。戴季陶の回想によると、彼は広州に戻った後の5月、中国共産党員の(国共合作により新たに中国国民党員となった)譚平山と中国共産党員の二重党籍の問題で対立し、次いで翌6月、中国国民党の古参党員で容共政策に反対する張継と感情的に衝突したため、再び離職したという。離職し上海に着いた(6月末)戴季陶は、この時初めて、孫文の理論学説を体系化する意思を表明した。
その後、広州の中国国民党中央執行委員会が戴季陶の復職を要請したことに対し、戴季陶は8月初頃孫文に対し、復職の条件として、党内問題を議論するために中国国民党中央拡大委員会を開催することを提案した。孫文は戴季陶の提案を承認し、戴季陶は8月10日前後に広州に着いた。しかし、戴季陶は拡大委員会(8月15日から25日にかけて広州で開催され、「国民党内の共産派問題」などを議論した中国国民党第一期中央執行委員会第二次全体会議のことか?)に出席しないまま、14日前後には広州を離れた。彼が再び政治活動を行うのは、同年11月17日に上海で、政局の収拾に当たるために北京に向かう孫文一行と合流してからであった。
戴季陶は孫文が初めて「大亜細亜主義」について講演を行った(1913年3月、大阪のキリスト教青年会館)時に日本語通訳を務めた。また、彼は孫文の「大アジア主義」講演(1924年11月28日、兵庫県立神戸高等女学校)でも日本語通訳を務めた。彼は『孫文主義之哲学的基礎』(1925年)のなかで、神戸での「大アジア主義」講演が孫文の理論学説の中心思想であると論じた。
孫文没(1925年3月)後、戴季陶は、孫文の生涯で最も偉大な点は「創造的な精神により中国の文化を復興させたこと」 であり、孫文が創造かつ実践した三民主義は文化の復興を基礎としている、「中山先生の逝去は、国民の政治訓育の基礎がいまだない時において、実に中国民族復興運動と文化的革命運動の一大挫折である」と述べた。戴季陶は広州で開催された中国国民党第一期中央執行委員会第三次全体会議(一期三中全会)(1925年5月)に出席し、「接受総理遺嘱宣言」案を代表執筆した(案は5月24日に採択された)。一期三中全会閉幕後(6月)、上海に移り、7月から8月にかけて執筆活動に専念し、『孫文主義之哲学的基礎』と『国民革命与中国国民党』を発表した。
中国国民党中央執行委員会は7月、戴季陶を国民政府委員会委員に選出した。彼は就任を承諾したが、休暇を申請し、その後も広州に向かわなかった。彼は11月半、葉楚傖、邵元沖、沈玄廬(沈定一)などと上海から北京に行き、広州の国民政府に反発する鄒魯らが主宰する「中国国民党一期四中全会」(いわゆる北京「西山会議」)の予備会議に出席した。その直後、彼は北京の宿泊先で、反共を旨とし国民政府を批判する中国国民党「同志倶楽部」に関係する暴漢に襲われ、「西山会議」の本会議に出席せぬまま北京を離れた。12月半、今後一切の政務や党務の職責を負わず、政治に関わる言動を行わず、自らの能力と動機に基づいて学術に専念することを宣言し、原籍地の浙江省呉興県に移った。そして、中国国民党の純化を主張する孫文主義学会に関与することを避け、神経衰弱を口実に広州で復職することを辞退した。
中国国民党二全大会(1926年1月)は、「弾劾西山会議決議案」を採択し、戴季陶が中国国民党一期三中全会で「関於容納中国共産党分子加入本党之訓令」 を起草して1ヶ月を経たない内に、中国国民党中央執行委員会の許可を得ずに個人名義で『国民革命与中国国民党』を執筆し、「良からぬ影響を生み、党内の紛糾を惹起した」ことに対し、「懇切な訓令を与え、二度と誤りを犯さないように猛省を促」すことを決めた。その一方、戴季陶を第二期中央執行委員会委員に選出した。中国国民党の戴季陶に対する処分は、「中国国民党一期四中全会」関係者の中で最も軽いものであり、党の首脳が彼を排除する意思がなかったことと、彼に対し極端な批判を自制しようとする中国共産党の公式的な立場を表していた。例えば、中国共産党員の譚平山は二全大会直前に、戴季陶は鄒魯に騙され利用されたと言った。また、中国共産党員の鄧演達は二全大会会期中に国民政府が主催した宴会の席上で、戴季陶が『孫文主義之哲学的基礎』と『国民革命与中国国民党』を著した本意は、中国国民党員の一部があまりにも弱くて頼りなく奮起せず、革命の方法を認識できていないので、党員を一斉に奮起させて革命を行わせることにあった、その後に戴季陶は党の綱領に背き反革命の工作を行う者に騙されて「中国国民党一期四中全会」に出席した、と述べた。戴季陶は鄧演達の発言に反発し、党による「中国国民党一期四中全会」関係者の処分が不公平であり、党の団結のためにその処分の執行を停止すべきこと、および、自らは第二期中央執行委員会委員に就任しない、と表明した。
1926年6月、国民政府は戴季陶を国立広東大学(同年8月国立中山大学に改称)校長に任命した。彼は健康上の理由で就任を辞退した。しかし、国民政府や大学の再三の要請を受け、同年夏に就任を受諾した。彼は前年12月に一切の政務や党務の職責を負わないと宣言していたが、学術と教育に強い関心を持っていたために、国立広東大学校長の就任を受諾したと考えられる。彼は校長就任の受諾直後に、大学に「アジア各民族およびそのほかの有色人種各民族の青年を集めて特殊な教育を実施すること」の必要性を述べ 、9月半までに「中山大学の基本を鞏固にし、中山大学の特色を発展させる」ために、「各科系」から独立した「専門院(原文は「専院」)」の東方民族院を設置する計画を立てた。戴季陶は9月末、国民政府と中国国民党に対し、国立中山大学の運営と政治教育(原文は「政治訓育」)を分離し、前者は校長制を委員会制に改めて委員会が行い、後者は中国国民党が行うこと、そして自らは委員に就くことを提案した。国民政府は10月半、戴季陶を国立中山大学委員会委員長に任命した。彼は同月17日に就任し、就任以降、学生や教職員が大学内で「国民党」派と「共産党」派に対立せず、衝突せずに孫文の人格と三民主義を信奉するように諭した。さらに、戴季陶は学科や課程の整備、施設の充実、教員の招聘、在籍学生の評価など大学の運営の大部分を企画したが、それらの企画を実現させる人材や財政を得られなかった。彼は11月に再び海外(とくにヨーロッパやソ連の教育組織)考察を計画し、蔣介石の支持を取り付けたが、実現しなかった。11月末、中国国民党は戴季陶を日本に派遣することを決議した。戴季陶は12月末、中山大学を発ち香港に向かう途中、発作的に珠江に身を投げようとしたため、同行の朱家驊などによって広州で静養させられた。翌1927年1月、広州を発ち武漢、廬山、上海を経て日本に向かい(下記)、3月末上海に帰国し、5月南京に移った。
戴季陶は1927年2月から3月にかけて、門司、別府、神戸、東京、箱根、大阪、長崎などを訪ね、外務次官出淵勝次、外務省条約局長佐分利貞男、亜細亜局長木村鋭市、情報部次長小村欣一や犬養毅、渋沢栄一など日本の政官財の重鎮や実務者、頭山満、吉野作造などの孫文旧知の民間人と会談し(一部の史料によると総理大臣若槻礼次郎、海軍大臣財部彪と会談したともされるが、確証を得ていない)、日本国民の中国革命への理解と、中日関係の再構築を求めた。
戴季陶が広州の第一中山大学(1927年2月中山大学から改称、実施されたのは同年7月頃)に戻ったのは7月末であった。彼は国立第一中山大学校長(国民政府は1927年6月、委員会制を校長制に改めて戴季陶を校長に任命)に復職し、学生や教職員に対し、大学に法律科(法科)専門部移民科と東方民族院を設置し、海外華僑学生の教育システムを確立する計画を発表した。その後、戴季陶の移民の精鋭分子の養成・派遣構想は、彼が国民政府考試院の設立(1930年1月)準備に忙殺され(1928年10月中国国民党は彼を考試院院長に選出、1930年1月就任)、また大学が財政難であったため、実現に至らなかった。しかし、彼はその後も、中国国民党中央党務学校の特別班設置、陝西省武功の西北農業専科学校の建設、新亜細亜学会の語学学校の建設計画(1932年11月)・辺疆文化陳列館の建設計画(1936年2月)に関与していった。
戴季陶は1927年4月、上海での反共クーデタ(中国国民党側から「清党」と呼ばれる)が勃発した時、クーデタを消極的に支持しながらも、このような事態に陥ったのは、何よりも中国国民党の「失敗の結果」であり、中国共産党に対する「消極的な仕打ちである清党は決してわれわれの活路ではない」 と述べている。彼は、マルクス主義の研究がマルクス主義を信奉する多くの者によって積み重ねられてきたことに対し、三民主義については同様の科学化と体系化が推進されず、中国国民党員の思想的方向性が定まらず、党員の団結が希薄化していることを慨嘆した。彼の言う中国国民党の「失敗」とは、まさにこのことであった。
戴季陶は1928年2月に南京で中国国民党二期四中全会に出席し、実質上中央の党務と政務に復帰した(1930年1月に国民政府考試院院長に就任。同年9月に国立中山大学校長を辞任)。そして、彼は1932年2月、「三民主義を信奉して行動し、中国文化を発揚し、アジア民族を復興すること」を宗旨とし、「専門的に中国の辺疆問題と東方民族の問題を研究すること」を掲げる新亜細亜学会の会長に選出された。
戴季陶はチベット仏教文化を儒教文化、三民主義と結びつけ、仏教が(辺疆を含む)中国の国民精神を形成し、国民意志を団結させることを可能にすると考えた。彼は、チベット仏教文化は中国を統一する文化的力量を有していると認識し、中国の「領土と政権が今日あるのは、ツォンカパ大師の徳のおかげであることをゆめゆめ忘れてはいけない。思うに、雪山<崑崙山脈>から長白山までの数万里の間で、数百年の統一を作り上げた発端はここにある」、と述べている。戴季陶は、仏教の衆生済度の考えに体現された仁愛精神と三民主義の救国救民主義が共通している、と認識していた。1938年4月から9月にかけて、重慶の国民政府を代表してカンゼを訪問し、故パンチェン・ラマ9世を祭った。
1930年代における辺疆建設問題の浮上は、南京(のちに重慶)の中国国民党や国民政府に改めて国家建設の重要性を認識させる契機になった。挙国一致の国民動員が要請される中で、具体的、日常的に生起する民族問題や宗教問題に直面せざるを得なくなったのである。さらに柳条湖事件(1931年9月)以降になると、国民政府は抗日運動を遂行する上でも、具体的で詳細な辺疆政策を策定しなければならなくなった。戴季陶(1931年9月30日、中国国民党中央執行委員会政治会議特種外交委員会委員長に就任)は「今日救国を行う道は、断じて辺疆を遺棄してはならない」 と述べ、辺疆建設を救国と結びつけて捉えた。また、中国国民党、国民政府の政令を辺疆各地まで通達させ、辺疆建設を進展させるためには、党、政府の威信が必要であると認識し、党や政府の関係者は誠信、和平、仁愛、慈悲の精神を持たなければならないことを強調した。
戴季陶は辺疆への移民について、一部の精鋭分子に依拠して周囲の者に影響を与え指導する方式を一貫して主張した。彼は政府による教育・訓練の施さない移民は失敗すると認識し、堅忍、刻苦、有識な精鋭分子を養成して移民として派遣し、移住先で辺疆建設の指導を行うことを移民事業の根幹にしようと考えた。彼から見れば、移民の大勢は受動的な存在であり、移民の精鋭分子の育成はある程度強者の弱者に対する責任と義務なのであった。彼は青海、陝西、四川、広東などの教育機関に書籍を寄付し、それらの教育機関を資金補助するように各関係機関に対して訴えた。また、辺疆出身者の南京での入学を斡旋し、辺疆出身者の登用を促進させることを政策として取り上げた。戴季陶は辺疆建設の綱領として「辺疆人材を選抜することによって、辺疆人民の事業意欲を鼓舞すること」を挙げ、「辺疆人材の選抜について言うと、最も重要なことは、各部族の優秀分子を網羅するように、適当な仕事を賦与し、辺地人民の特長を発揮させ、彼らの事業意欲を引き出させ、自然に事業<辺疆建設>に努力させることである」と述べている。さらに、漢唐の制度に倣い辺疆出身の学生に漢族式の学名をつけたという逸話がある。彼は、辺疆への移民は辺疆の資源開発と防衛を充実させるだけでなく、国内諸民族を中国国民として統合する有効な手段でもあると考えていた。三民主義や仏教あるいはチベット仏教が、国内諸民族の国民統合にどれほど現実的有効性を持つものであったのかは疑問視される。例えば、彼がウイグル族のイスラーム信仰に対してどれほど配慮していたのかは不明である。しかし、日本の侵略により、政府機関や各種団体が内陸部へと後退、移転したために(1937年11月、国民政府が重慶に移転)、大後方の西北(内モンゴル、甘粛、青海、新疆)と西南(貴州、雲南、四川、チベット)の両地域の戦略的重要性がかつてなく高まった。そして、産業立地や戦時物資の供給、地下資源の確保の上から、辺疆の安定が重慶の国民政府の至上課題となり、また、大後方、すなわち西北、西南に在住する少数民族といかに団結し協力関係を築いていくのかが、辺疆建設の最大の課題となった。戴季陶の辺疆問題への取り組みはこうした緊迫した情勢と連関していた。
戴季陶は国民政府特使としてベルリンオリンピックに派遣され訪欧し(1936年5月~10月)、招宴に応じる以外は「一国の文化がどのようなものであるか」を知るために教会と歌劇場を参観した(彼はアメリカで生活したことのある国民政府主席林森からそのことを教わった)。彼は帰国後、「大小十余りの国を遊歴し、……あえて得るものがあったと言わないが、各国の政教風俗について見たものは多かった。要するに、欧洲諸国は祭や宴において礼楽が行きとどいて備わっており、プロテスタントと歌劇の礼楽がとくに盛んで美しい。もしこのことを評論するならば、私は、<礼楽の>形式は中国のものと同じではないが、礼楽の意味は、とくにわれわれに伝わる礼経の義と大きく違わないと思った。歌劇、話劇、雑劇および映画館、遊楽場には未成年者は入ることが決して許されていない。また家庭での宴会も同じである」、との感想を残した。
戴季陶は1940年10月から12月にかけて、重慶の国民政府と中国国民党を代表し、ミャンマーを経由してインド各地を訪問し、タゴール、ガンディーと会談した。戴季陶はネルーも訪ねたが、ネルーは当時投獄されていたため会談し得なかった。戴季陶の中印連携論の根拠は、中印両国がアジアの文化大国であり、仏教国であることにあった。
戴季陶は1945年、抗日戦争が終わった知らせを聞いた時、「和気」、「忍耐」、「節省」を国民に訴える必要があると考えた、という。彼は下記のように、中国が人力と物力の不足により戦後復興が困難であることを憂慮していたからである。
「日本はすでに戦争に敗れ無条件降伏した。<中国は>国を固め、民を安んじ、世界と協和する活動にこれから着手しなくてはならない。その困難さは倭寇に抵抗する戦争の百千倍も困難である。思うに、戦争に勝つことは固より困難であるが、和平を保持することはさらに困難なのである」。
ここに言う「和平を保持することはさらに困難なのである」とは、戴季陶が戦後の東北(満洲)、内外モンゴル、新疆をめぐる中ソ関係、国共関係について決して楽観していなかったことを表している。また、中国国民党と中国共産党との内戦が激化しつつあった1948年1月には、
「最も自ら悲しむことは、民国の建国から一昨年(ママ)の大戦終了時までの約35年間において、最近の日本降伏という、実にわが国とって弱を転じて強となるような時の運が最も有利な日であり、全国一切の建設を整頓し、国際的な地位が与えられる百数十年来未曾有のよい巡り合わせを、まったくうまく利用できずに、甘んじて自暴自棄になってしまったことである」
と慨嘆している。
戴季陶は1948年1月、中国は古来「礼楽を政教の本源とし、……ことごとく民生を重んじ」たが、「近年の中国では礼楽が滅びて久しいために、中国は衰えかつ乱れているのである」。さらに、現在(当時)の中国における人心の荒廃と宗教の衰退を危惧し、科学技術ばかりを崇拝する風潮を厳しく批判した。彼は、富強は覇道(軍国主義)でなく王道(民族主義)の中で実現し、礼が守られる。しかし、中国はいまだ内政を再建できず、富強を達成できず、貧しく弱い国家として王道と礼を守れず、覇道の国際社会から自立できないままに冷戦に巻き込まれるのではないか、と憂慮した。そして、戦後の日米ソはすでに科学や功利ばかりを重視する覇道の国家になってしまったと認識し、日本の戦後改革や日本国憲法の施行、および戦後の冷戦、米ソ対立に直接言及することはなかった。彼は戦後、国策を誤り敗戦した日本が、琉球、朝鮮、ロシア、中国などの「隣国との交際」にあたって、古来の教えである儒教に背き、「仁を忘れ」たために「自滅してしまった」、と慨嘆した。
戴季陶は1948年6月に考試院院長を辞任し、湯山に隠居した。中国共産党軍の南下により、蔣介石や蔣緯国は戴季陶に南京から台北に移るように勧めたが、戴季陶は成都の実家に戻ることを希望し、台北行きを拒否した。戴季陶は12月末、南京を発ち広州に移り成都行きを準備したが、翌1949年2月12日広州東山で没した。享年58。睡眠薬を大量に服用し(持病の神経痛のために睡眠薬を常用していた)、心臓が衰弱して停止したことが直接の死因であり、遺書は見つからなかったという。なお、中国文学研究者で、戴季陶の『日本論』を再評価した竹内好は、戴季陶の死を自殺だと考え、その原因を「中国共産党政権に追いつめられたというより、国民党の腐敗に対する絶望のためではないか」と推測している。
検索する場合、以下の例も含めるとよい。
戴季陶は「最近之日本政局及其対華政策」(1917-18年)、「張継何天炯戴伝賢告日本国民書」(1919年)、「我的日本観」(1919年)などでその日本への関心を示している。とりわけ、『日本論』(1928年4月)は、近代中国人が著した最も有名な対日観の一作品と見なされている。
戴季陶は『日本論』のなかで、イギリスのアジア政策、ソ連の中国政策、日本の山東出兵(1927年5月-6月)、中国政府の支配力欠如と中国国民の政治能力欠如が「東方の将来の世界大戦」を招来することを警戒し、中国の自強には統一した国民精神の形成が必要である、と論じた。そして、明治維新以来急速に軍国化していく日本の現状を分析し、日本民族の特性であった倫理性、武士道に現れた「尚武」精神が、1927年の訪日時には荒廃していたと嘆いた。さらに、中国国民は三民主義を信奉して国民精神を形成し、革命を成就させ自強に努め、日本の中国における勢力に抵抗することと、中国の国家は民族主義を発揮して日本のような軍国主義に向かうのを回避し、強国となった暁には東方道徳の王道の道統となることを展望した。
ただし、戴季陶は『日本論』執筆の以前も以後も、日本に関する評論を多数著している。よって、彼の対日観を『日本論』に集約させる考え方は不適当である。
孫文が述べたと伝えられている「華僑は革命の母である(華僑爲(是)革命之(的)母)(华侨为(是)革命之(的)母)」の語は、孫文の著作、言行を記録した資料からは現在のところ見つかっていない。「華僑は革命の母である」の語が最初に用いられたのは、戴季陶が1927年3月30日に長崎の通天閣で行った講演(中国語を使ったとされる)である。(黄堅立「“華僑為革命之母”――賛誉之来歴与叙述」、久保純太郎「「華僑為革命之母」と戴季陶」)
中華民国(国民政府)
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