Loading AI tools
ウィキペディアから
成歓の戦い(せいかんのたたかい、ソンファンのたたかい)は、日清戦争の最初の主要な陸戦である。成歓・牙山の戦いとも呼ばれる。
1894年6月8日に、葉志超総督、聶士成山西太原鎮総兵に率いられた清国軍(北洋陸軍、歩兵約2,500名、山砲8門)が牙山に上陸した[1]。7月24日時点で3880名に達する[2]。
7月23日午前2時、日本軍の混成第九旅団(歩兵四箇大隊など)が郊外の駐屯地龍山から漢城に向かった。「〔民間〕人ヲシテ」電信線を切断し、歩兵一箇大隊が朝鮮王宮を攻撃し、占領した。日本は国王高宗を支配下に置き、大院君を再び担ぎだして新政権を樹立させた。25日、朝鮮の新政府は清国の宗主権破棄を宣言、大鳥圭介公使に対して牙山の清国軍撃退を要請した。7月26日に混成第9旅団(旅団長大島義昌少将)にその旨が伝達される。
7月28日に日本軍は牙城に篭る清国兵を攻撃するため出発[注釈 1]。7月29日午前3時20分、佳龍里において清国兵の攻撃により歩兵第21連隊第12中隊長・松崎直臣歩兵大尉が戦死する(日本側初の戦死者)。[3]他数名が死傷した(安城の渡しの戦い)[4]。午前8時30分に日本混成第9旅団は成歓の敵陣地を制圧する[4]。
大島旅団長は清国軍の主力が牙山にあるとし、7月29日午前に全旅団に牙山へ向け出発を命じた。午後3時頃、牙山に到達したが、清国軍は敗走していた[5]。
この作戦の日本側の死傷者は88名なのに対して、清国兵は500名以上の死傷者を出し、武器等を放棄して平壌まで逃亡する。
Seamless Wikipedia browsing. On steroids.
Every time you click a link to Wikipedia, Wiktionary or Wikiquote in your browser's search results, it will show the modern Wikiwand interface.
Wikiwand extension is a five stars, simple, with minimum permission required to keep your browsing private, safe and transparent.