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忠清道(チュンチョンド、ちゅうせいどう(または『ちゅうしんどう』))は、李氏朝鮮の行政区画(朝鮮八道)の一つ。別名を湖西(ホソ/호서)という。
北を京畿道に東を江原道と慶尚道に南を全羅道に接する。西は黄海(朝鮮名:西海(ソヘ))に面している。古くは百済に属す地で忠清道の人は一般的に穏和と言われている。
首都圏に隣接し、日本の静岡県と山梨県を合わせた地域と似た立ち位置である[要出典]。
この地域の都市、忠州と清州の地名を取って忠清道と名付けられており、統一新羅時代に中原と西原の小京が設置された地でもある。道の中心は忠州に置かれた。
高麗時代の楊広道であり、995年忠原道として設置された。1105年楊広忠清州道と改称され、1171年楊広と忠清の二道に分割されたが、1314年再び、楊広忠清州道に戻し、楊広道と改称した。
太祖4年1395年 楊広道から忠清道に改称し、忠清道から楊州(現 : 京畿道楊州郡)、広州(現 : 京畿道広州市)を京畿道に編入させた。また太宗13年1413年)には、忠清道から京畿道に驪興、安城、陰竹、陽城、陽智を編入させ、慶尚道から忠清道に沃川・黄澗・永同・青山を編入させ、現在に近い形になる。
1896年8月4日の高宗の勅令で、忠清北道と忠清南道に分割された。
錦山郡はこの時に全羅北道に編入されたが、1963年に忠清南道に変更されている。
日本のメディアでの「韓国中部」もおおむね忠清道地域であるが、韓国中部には緯度の関係で慶尚北道北部も含まれる。
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