応仁の乱
1467年に日本の京都で発生した内戦 / ウィキペディア フリーな encyclopedia
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応仁の乱(おうにんのらん)は、室町時代中期の応仁元年(1467年)に発生し、文明9年(1477年)までの約11年に及んで継続した内乱。
概要 応仁の乱, 交戦勢力 ...
応仁の乱 | |
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『真如堂縁起絵巻』掃部助久国筆 | |
戦争:応仁の乱 | |
年月日:(旧暦)応仁元年 - 文明9年 (ユリウス暦)1467年 - 1477年 | |
場所:京都 | |
結果:西軍の消滅 | |
交戦勢力 | |
東軍 | 西軍 |
指導者・指揮官 | |
細川勝元 細川政元(ほか) |
山名宗全 大内政弘(ほか) |
戦力 | |
約160,000(諸説あり) | 約110,000(諸説あり) |
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室町幕府管領家の畠山氏と斯波氏それぞれの家督争いに端を発し、足利将軍家の後継者問題も絡んで幕政の中心であった細川勝元と山名宗全の二大有力守護大名の抗争となり、幕府勢力が東西に分かれて争い合う戦乱に発展、さらに各々の領国にも争いが拡大する大乱となった。
明応2年(1493年)の明応の政変と並んで戦国時代移行の原因とされる[注釈 1]。
11年に渡る戦乱は、西軍が解体されたことで収束したが、主要な戦場となった京都全域は壊滅的な被害を受けて荒廃した[1]。
応仁元年(1467年)に起きたことから一般に「応仁の乱」と呼ばれるが、戦が続いたことにより、応仁は僅か3年で文明へと改元された。そのため、近年では「応仁・文明の乱」(おうにん・ぶんめいのらん)と称されることもある[2]。