嶽麓書院
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嶽麓書院(がくろくしょいん)は、中国の書院。中国四大書院に数えられ、湖南高等学堂を経て、湖南大学の前身校となった[1]。建物は現在も湖南大学が管理している。岳麓山風景区の観光地。
北宋の開宝九年(976年)、潭州知州の朱洞が設立。咸平二年(999年)、潭州知州の李允則は書院を拡建した。咸平四年(1001年)、真宗から『史記』『玉篇』『唐韻』の儒家典籍と「嶽麓書院」の額を賜った。王禹偁の『潭州嶽麓山書院記』に云く:「使里人有必葺之志、学者無将落之憂。誰謂瀟湘?茲為洙泗。誰謂荊蠻?茲為鄒魯」。大中祥符五年(1012年)、初代目の山長(学長)に周式が就任[2][1]。
南宋の乾道元年(1165年)、湖南安撫使の劉珙は書院を修復する。張栻が書院教事に就任する。乾道三年(1167年)、儒学者の朱熹はここに講義[3]。紹熙五年(1194年)、湖南安撫使の朱熹は書院を重修した。淳祐六年(1246年)、理宗から「嶽麓書院」の額を賜った。嘉定十五年(1222年)、湖南安撫使の真徳秀は書院を修復する。儒学者の張忠恕(張栻の伯父の張潮の子の張枃の子)と張庶(張栻の従伯父の張湃の孫)はここに講義。徳祐元年(1275年)、元の右丞相のエリク・カヤ(阿里海牙)は兵士を潭州に攻撃する、書院の生徒は戦いに参加し、壮烈に犠牲になった[1]。
元の延祐元年(1314年)は書院を重修した。至正二十八年(1368年)、紅巾軍の火難で、嶽麓書院は全焼した[1]。
明の弘治七年(1494年)、長沙府通判の陳鋼は書院を再建した、翌年完工。弘治九年(1496年)、楊茂元と王瑫は書院を修復した。正徳二年(1507年)、守道の呉世忠は書院を拡建する。同年、儒学者の王陽明はここに講義。嘉靖五年(1526年)、六君子堂(六君子:朱洞・李允則・劉珙・周式・陳鋼・楊茂元)は学道許宗魯と知府楊表によって建立された。嘉靖六年(1527年)、長沙知府の王秉良は書院を重修した。延賓館・集賢館・尊経閣・崇道祠を増築した。嘉靖九年(1530年)、嘉靖帝から、「敬一」の箴を賜った。嘉靖十八年(1539年)、長沙知府の季本(王陽明の弟子)は書院を修葺する。万暦十年(1571年)、王陽明の弟子の張元忭はここに講義[1]。
清の康熙二十五年(1686年)、巡撫丁思孔は書院を再建した。郭金門が山長に就任する。康熙二十六年(1687年)、康熙帝から「学達性天」の額を賜った。乾隆八年(1743年)、乾隆帝から「道南正脈」の額を賜った。同治七年(1868年)に大規模な再建によって、現在の基礎が築かれた。嘉慶十七年(1812年)、濂渓祠が修築されている。光緒二十九年(1903年)、清政府の廃止により嶽麓書院の名称が湖南高等学堂と改称[1]。
1988年、中華人民共和国全国重点文物保護単位に指定された。
嶽麓書院の土地面積は21,000平方メートル。
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