岸信周
ウィキペディアから
ウィキペディアから
美濃国の武将・佐藤信連の子として誕生。岸氏は、はじめ佐藤姓で藤原秀郷から分かれた一族といわれる[3]。
美濃斎藤氏に仕え、天文11年(1542年)に斎藤道三が主君・土岐頼芸を大桑城から追放した戦に従軍[4]、天文16年(1547年)(天文13年とも)の加納口の戦いで尾張国の織田信秀の甥・織田新十郎を討ち取った功により、道三から感状を受けた[5]。同年、再度の土岐頼芸攻めにも加わっている[4]。ところが、弘治2年(1556年)の斎藤氏の内紛である長良川の戦いでは道三側ではなくその嫡子・義龍側に参戦[4]、義龍の死後は子の龍興に仕えた[6]。
永禄8年(1565年)、関城主・長井道利と親族である加治田城主・佐藤忠能と共に堂洞城にて集まり、織田信長の侵攻に備えるため中濃三城盟約を結ぶ。この時、忠能の娘(八重緑)を養女とするが、加治田衆が織田氏に寝返ったため刺殺し、堂洞城長尾丸にて磔にした(遺骸は佐藤忠能の家臣・西村治郎兵衛が奪取し龍福寺に葬られた)。
堂洞合戦において織田氏に寝返った佐藤忠能と戦う。しかし、長井道利の援軍は織田信長本軍に阻まれ撃退され、岐阜城からの斎藤龍興の援軍も一日遅く間に合わなかった。これにより堂洞城は完全に包囲され攻城戦が行われた。信周の一族は攻城戦により、織田・加治田連合軍に少数ながらも大損害を与えたが敗北し、一族もろとも城を枕に自刃した(堂洞合戦)[7]。
嫡男の信房は信長より派遣された降伏の使者金森長近の面前で子供の首を斬ったが、乳母がその弟を連れて秘かに城を落ち延びた。娘(一書に栄とも)も乳母が連れて逃げ、潜んだ場所が加治田栃洞区堂洞の東裏手にある「姥ヶ洞」と伝わる。弟の信貞は兄とともに堂洞合戦で討ち死にしたが、これらの子孫は現代まで存続しているという[8]。
Seamless Wikipedia browsing. On steroids.
Every time you click a link to Wikipedia, Wiktionary or Wikiquote in your browser's search results, it will show the modern Wikiwand interface.
Wikiwand extension is a five stars, simple, with minimum permission required to keep your browsing private, safe and transparent.